『阿修羅の祠』〈1:遍檀和尚の話〉
登場人物
財前 真古:老婦人
西門 禮介:作家、真古の甥
栗崎 輪太郎:退役警官
遍檀和尚:僧侶
蘭部 理恵:画家
辺沢 陸生:司法書士
兵頭理智弥:「静ケ森館」主人
兵頭於斗也:弁護士・理智弥の従兄弟
箕輪茉奈:招待客・身分の高い女性
箕輪 菫:茉奈の娘
三郎次大作:退役軍人
三郎次靖乃:大作の妻
徳田志門:医師
狩矢飛鳥:招待客・社交界の華
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「さて、お次は…?そうですな、遍檀和尚。いかがです?」
栗崎輪太郎氏が話を向けると、和尚は穏やかな笑みを見せた。
「はてさて、拙僧はこれまで至って穏やかに一生を過ごしてまいりました。これという波瀾万丈な出来事というのはそう滅多に出会うものではありませんが、若い頃に一度だけ、摩訶不思議にして悲惨なる体験をしたのでございます」
「まあ…!」
蘭部璃恵は続きを催促するような調子で弾んだ声をあげた。
「今でもあの出来事を忘れることはできませんな」和尚は言葉を続ける。「当時もひどく心を乱したものですが、その後も今に至るまで、折々であの出来事を思い返しては背筋が寒くなる思いをしております。仏弟子として何を情けないと思われるやもしれませぬが、なにしろ大の男が人間の業とは思えぬ方法で一突きにされ、命を落とす様を見たのですから…」
「和尚、さっそく背筋がぞくぞくしてきましたぞ」
身震いした栗崎氏が顔を引きつらせながら笑う。
「拙僧も、今のお言葉を借りますれば思い出す度に『ぞくぞくして』おりますよ」
和尚は頷く。
「あれ以来何かといえば『雰囲気』という言葉を使うお方のことを悪く言えなくなりました。実際、そういう場所というのは世の中に確かにあるようなつもりでおります。良い悪いは別として、何がしかの人智を超えた凄まじい力が蓄えられ、そこを訪れる者はその力を嫌でも感じてしまうという、そういう場所が」
「そうそう、そうです〈落葉松荘〉—あそこもとっても不吉な場所ですよ」
財前真古がそう言い出した。
「そこへ以前に住んでいらしたお爺さんね、隅崎さんという方ですけれど、全財産を失ってお屋敷を手放しましたし、次に住んだ春日さんご一家は坊ちゃんが階段から落ちて骨折して、奥さんが心労で体を壊して熱海へ転地療養する羽目になったし。今は万代さんご夫妻の持ちものになりましたけどね、お気の毒にご主人が越して来てすぐ手術になったとかってお話ですよ」
「そういったことは全て迷信だと私は思いますがね」
辺沢陸生がけしからんという表情で眼鏡を直しながら言う。
「不幸な出来事が連続した家に噂がたつことは理解できますが、世間には似たような話はごまんとあるのです。そういった馬鹿げた噂を立てる連中は、その噂のせいで立派な不動産にケチが付くということもわからずにいるのです」
「私も『幽霊』というものには一人二人心当たりがある」
栗崎氏はにやにや笑いながら言った
「いやはや、どいつも至って健康そのもので、こちらが参ってしまうほどの者だったが」
オホン、と西門禮介が咳払いをした。
「皆さん、そろそろ和尚の話を先に進めようじゃないですか」
璃恵がすっくと立って行って、部屋の明かりを消す。これで室内の明かりは、暖炉の揺らめきだけになった。
「『雰囲気』づくりにね」と言って、璃恵は自分の席へ戻る「さ、和尚、どうぞ」
璃恵に促され、和尚は椅子に深く腰掛けると、遠い記憶を手繰り寄せるように話し始めた。
皆様が大洞村という地名をご存じかどうか。今からお話しするのはその大洞村という村の外れにあるとある屋敷で起きた出来事なのです。
屋敷は、村に似つかわしくないほど立派なものでありましたが、何故か長の間買い手がありませんでな。冬の間は荒涼としてしまう土地柄のせいか—それでも、周りの眺めは良く、屋敷自体も不思議な魅力がありました。
そこを買ったのが私の若い頃の友人で兵頭理智弥という男でした。しばらくの間交流は途絶えておりましたが、さりとて絆も途絶えておったわけではありませんでな。彼からその屋敷—「静ケ森館」への招待を受けた時には、喜んで応じたのです。
この時集まった人数はさほどのものでもありませんでした。まず、兵頭理智弥、彼の従兄弟の兵頭於斗也。何やら身分の高そうな女性で箕輪茉奈女史、この方は菫さんという少々顔色の悪い、大人しそうな御令嬢とご一緒でした。他には三郎次大作、靖乃ご夫妻、そろって快活な風の日焼けした夫婦で、乗馬と狩猟が生きがいといった様子でした。それから医師の徳田志門先生。そして、狩矢飛鳥女史—
この最後の女性、拙僧でも名前を知っているような方でした。新聞などでも折々に名前を拝見する、いわば社交界の花として有名な—まあ、悪名高いと言えなくもありませんが—そんな女性でありました。噂通りに非常な美人で、濡羽色の髪、すらりとした長身、しみ一つない白い肌。深い色の瞳は絶えず伏し目がちでありながら目尻が吊り上がり、小股の切れ上がった美人。話す声はまるで暮れ方に撞く鐘のように深みがありましたなあ。
日頃朴念仁を自称する拙僧でもすぐに気がつきましたとも—この女性に、わが友兵頭理智弥はすっかり参っておって、今回のこの集まりも言ってしまえば彼女の為だけに作られた一種の舞台のようなものであるとね。彼女自身それをどう思っていたのかなどは推して知るしかありませなんだ。というのも彼女はとても気まぐれなお人柄の様子で、ある時は理智弥にばかり話しかけて彼以外に人がいないようにふるまう、しかし次の日には従兄弟の於斗也をちやほやして他には洟もひっかけないという様子、そうかと思えば、物静かな徳田志門にちょっかいをかけてみる…といった具合でして。まあ、それは少し置いておくと致しましょう。
我々が屋敷に到着した日、兵頭理智弥は敷地内を案内して回ってくれました。屋敷自体は大谷石を使って作られた西洋館でしてね、これがまるで砦のように堅牢な作り。荒れ地の真ん中ですから、長年の風雪に耐えうるように作られたものだったのでしょうな。決して色気があるわけではありませんが居心地は存外によろしかった。屋敷の窓からは周囲の荒野が一望でき、風雨にさらされ鋭くとがった岩山が、なだらかな丘の重なるところに点在するのが見えておりましたっけ。
屋敷にほど近い岩山の斜面には、様々な石造りの小屋のようなものが並んでおりました。これがなんと石器時代の遺跡だというんですな。かと思えばまた別の斜面には古代人の墓跡だという塚があり、ここが最近調査の手が入ったとかで、二、三の青銅器が発見されたとのことでありました。
兵頭理智弥はまあなんというか、古物愛好家のような所がありまして、この時も我々に熱弁をふるったものでした。曰く、まさにこの屋敷がたつこの地こそが、古代の遺物が唸るほどに埋蔵されている、言うなれば聖地であるのだとか。
「石器時代の岩屋の住人、飛鳥、奈良、平安、更には縄文人の痕跡すら、ここでは発見されている。しかし最も探求心をくすぐられるのは、まさにこの屋敷の建つ土地なのさ。「静ケ森」というここの地名がどこから来たものであるのか。まあその見当をつけるのはそう難しくはないだろうね」
そう言って彼が指さす先には荒れ野が変わらず広がっておりましたが、屋敷から少しばかり離れた場所に椀を伏せたように小さな森があったのです。
「あの森も古代遺跡の一つでね——と言っても、大昔からの木はとっくに枯れて、その後植え替えられているらしいが、それでもしっかり当時の雰囲気が残っている。古代人の息吹を感じられるはずだ。まあ、ちょっと覗いてみましょう」
理智弥の後についてぞろぞろと森に入ったのですが、その森に一歩足を踏み入れたところ、妙な圧迫感が拙僧を襲いました。深閑と静まり切った森の空気のせいか…うっそうと茂った古木の梢には一つの鳥の巣さえなく、荒れ果て、寂れ切った剣呑な雰囲気が満ち満ちておりました。理智弥が拙僧を見て、妙な薄笑いを浮かべております。
「どうだ、何か感じるかい?」何か試すような調子でしたな「そうだな、嫌悪感とか、不安とか?」
「どちらにしても厭な気分だ」と拙僧は努めて静かに答えました。
「まあそれも致し方ないだろうな。ここは仏の教えに背く輩が自分たちの良いように宗旨を捻じ曲げて、好き勝手やっていた場所でね—別名を『阿修羅の森』という」
「阿修羅?あの阿修羅か?」
「そう、平安の頃だというが、荒れ狂う戦乱の神であるところの阿修羅を本尊にした淫祠邪教の総本山がこの辺りにあったというんだな。もっと北の方の城壁跡の近くだという人もいるが、まあ僕としちゃこの森こそが阿修羅の森だと考えているのさ、確固たる証拠こそないが、この円形の薄暗い森の中で、かつて邪悪な儀式が行われていたと思いたい」
「邪悪な儀式…」狩矢飛鳥がどこか陶酔したような表情で呟きます。
「まあ、一体どんなことが行われていたのかしら…」
「どうあっても、あまり人目に晒せる類のもんじゃありますまい」
三郎次氏が空々しく笑いながら言いました
「淫祠邪教などというものですぞ、それはそれはいかがわしい手合いのものでしょう」
理智弥は三郎次氏の茶化しは気にも留めない様子でした。
「森の中心には、祭祀場があると相場が決まっている。そこまで立派なものにはならなかったが…まあ、それなりに体裁は整っているつもりだよ」
そんなやり取りをしている内に、一行は森の中心と思われる小さな空き地にたどり着きました。そこには石造りの小さな、東屋のようなものが一つ立っておりました。狩矢飛鳥が、困惑した視線を理智弥に向けます。
「あれは祠だよ」厳かな口調でした。「『阿修羅の祠』だ」
彼の先導で、一行は祠の内部に踏み入りました。祠の中には小さく粗末な祭壇と、仏具や祭具のようなものが数点、そして最前から話に出ていた阿修羅の小像が鎮座ましましておりました。三面六臂のお姿で、日輪、月輪、弓矢をお持ちになっておられた。
「この阿修羅像は太陽と月を手にしているんだ」
「まあ、月?素敵だわ!」
理智弥の声に飛鳥女史が弾んだ声をあげました。
「今夜は満月ですもの、ねえ皆さん、今夜は羽目を外してパーティをしませんこと?それぞれに仮装をして、思い切り騒ぐの。そうして月光を浴びながらここへ来て、阿修羅の儀式を行うというのはいかが?」
拙僧の動揺を見抜いたのか、理智弥の従兄弟である於斗也がこちらの様子を窺うようにして聞いてきました。
「あなたはあまりこういうことは感心しないんじゃありませんか?仏門に入っておられるとか」
「ああ——仰る通りです」拙僧は少し答えに窮しましたが、正直に答えました。「正直申しますとあまり、好みませんね」
すると於斗也はいぶかしげに拙僧を見ましてな。
「でもこんなのはちょっとした余興じゃありませんか、理智弥だってここが古代の祭祀場なのかどうか確かなことを知ってるわけじゃありませんし。ちょっとしたことを大げさに取り上げて妄想をしているにすぎないんですから。仮にそれが事実でも——」
「事実でも、なんです?」
「ああ、その、まあ、なんというか」気まずそうに笑ってごまかすと続けました。「ああいった類のことは、宗教家としてはその、よろしくないと思っておられるわけでしょう?」
「まあ、仏弟子としてはこういったものを弄ぶのはよろしくないと思いますがね」
「ですが、もうずいぶんと昔のことじゃありませんか、そんな前時代的な風習はもう廃れて、今は科学の時代ですよ」
「はて、一概にそう言い切れるものでしょうか」拙僧は考え込みながら言いました。「これだけは確かに言えるということは、最前この森に足を踏み入れてからというもの、ずっと妙な雰囲気を感じているのですよ。邪悪な気配というか、拒絶するような、威嚇するようなとげとげしい空気を」
於斗也は不安げに辺りを見回します。
「それは——僕も感じていました。何故か妙な気配というか雰囲気を感じますよ。しかし、理智弥の話を聞いてしまったから、我々の想像力がたくましくなっているだけではありませんか?志門、君はどう思う?」
いきなり話を振られて、医師の徳田志門先生は面食らったようでしたが、しばしの沈黙の後口を開きました。
「確かに私も厭だね。何故か?と聞かれれば答えようもないが…生理的に、とでもいうかな」
丁度、箕輪菫嬢も会話に加わって来ました。
「わたくし、なんだか厭ですわ、この祠」切羽詰まったような口ぶりでした。「早く出ませんか?もう沢山です」
その言葉が合図になったように、一行は次々と祠の外へ出て行きました。ただ、狩矢飛鳥だけはその場を動こうとしません。祠の出口でそっと肩越しに振り替えると、阿修羅の祭壇前で食い入るように阿修羅像を見つめている彼女の後姿が見えましたな。
「その姿は、何か悪いものにでも取り憑かれているようでありましたよ」
そう言って、遍檀和尚は深く息をつくと紅茶を口に含み、喉を湿らせ、話の続きを語り始めた…
〈続〉
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