火曜倶楽部<1:倶楽部発足>
登場人物
財前 真古:老婦人
西門 禮介:作家、真古の甥
栗崎 輪太郎:退役警官
遍檀和尚:僧侶
蘭部 理恵:画家
辺沢 陸生:司法書士
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火曜倶楽部』<1 俱楽部発足>
【昭和32年 神奈川県 三井戸村】
「未解決の謎-」
西門禮介は紅茶のカップから口を話し、ふうっと大きく息をつきながらそう言った。いくらかわざとらしい、何か楽しんでいるかのような口ぶりだった。
「未解決の謎ですよ」
もう一度そう言って、禮介は満足げに辺りを見回した。
ここは古いが佇まいの良い部屋で、天井には太く真っ黒な梁が走り、それによく合ったアンティークの家具が置かれている。
禮介の満足げな様子はこの部屋に由来しているらしい。西門禮介という男は作家なのだが、その職業柄なのか、周囲が雰囲気満点で、何もかもそれらしい佇まいであることを好むのだ。
その点、禮介の伯母のこの家は、彼にはとても居心地が良かった。
禮介が暖炉の方へ眼をやると、この家の主が大きな肘掛椅子に背筋を伸ばして座っているのが見える。
伯母、財前真古は、胸にたっぷりとしたレースが垂れかかった黒いドレスを身にまとい、手にはレースの黒い指なし手袋、見事な白髪を高く結い上げて、先ほどから手を止めることなく、何やら白くて柔らかいものを編み続けていた。
穏やかなその眼差しがふと持ち上がり、甥と、甥が招待した晩餐の客たちを見まわした。まずは禮介——意識的に無邪気な様子を取り繕っている。次に蘭部璃恵——彼女は画家で、髪を短く刈り込んでいて、一風変わった雰囲気の女性だ。三人目はこざっぱりした立派な紳士、栗崎輪太郎氏。
部屋には他に二人、客がいる。一人はこの村の寺の住職である遍檀和尚。もう一人は司法書士の辺沢陸生。小柄で眼鏡をかけた干物のような男で、眼鏡の縁の上から物を見る癖がある。
以上五人の客を順番に見まわしてほほ笑むと、真古は編み物を再開した。
辺沢氏が咳払いをした。何かを言い出す時の彼の癖だ。
「禮介君、君今何と言ったんだね?『未解決の謎』だって?それがどうしたんだい」
「なんでもありませんよ」
璃恵が言った。
「彼がただその言葉の響きが気に入っているだけ、それと、それを使っている自分自身がね」
禮介はちらりと彼女を非難めいた目で見た、璃恵はその様子を見て冷ややかに笑う。
「彼、いつも訳が分からないことを言いたがるんですよ、そうじゃありません?真古さん、きっとお分かりになるでしょ?」
真古はそう言う璃恵に微笑み返したものの、はっきり肯定はしなかった。
「未解決というならば、人生そのものがそうではないかな」
遍檀和尚が重々しく言う。
「僕はそんなつもりで言ってませんよ」
禮介は不満げに鼻を鳴らし、椅子に座り直した。
「僕が考えていたのはそういう禅問答じゃなく、もっとあからさまで、平凡で…何というか俗っぽい事件の話です。実際に起きて、しかも誰もその謎を解明できていない事件…そういうものですよ」
「それならあたくしが知っていますよ」
口を開いたのは、真古だった。
「あなたの言うような事件をね。例えば…唐崎さんの奥さんが鯖の缶詰を二個、襟本商店で買ったのよ。そのあと別のお店を二軒回って、お宅に戻ったところでその缶詰をどこかへ置き忘れたことに気が付いたの。すぐに寄った場所を訪ね歩いたけれど、缶詰は影も形もない…これなんて、あたくしにはとてつもない怪事件だと思えますよ」
「それはさても面妖ですな」
栗崎氏が真面目くさった様子で相槌を打った。
「もちろんこれにはありとあらゆる可能性が考えられるでしょうね」
真古は勢いづいて、頬をやや紅潮させている。
「あたくしが思うに、例えば誰か他の人物が…」
「伯母さん」禮介がそれを遮り、苦笑をこらえるような口ぶりでつづけた。
「僕が言ってるのはね、そんな些細な日常の出来事じゃないんですよ。殺人とか、行方不明とか、そういった類の…栗崎さんなら何時間でも話し続けても話の種が尽きないような、そういった出来事の話なんです」
「いやいや、禮介君。私はあまり昔のことは話さないことにしとるんだよ」栗崎氏は控えめにそう言った。「なにぶん専門分野のことだし、外に出るとまずいこともある」
そういう栗崎氏は、つい最近まで警視庁の上層部に籍を置いていた人物だ。「けれど、殺人にしろなんにしろ、警察でもついに解決できなかった事件というのは、そりゃ随分あるんじゃありません?」
璃恵が言うと、辺沢氏もうなずいた。
「ねえ皆さん」禮介が言葉を続けた。「そういう未解決の事件を解決するのに必要な頭脳というのは、一体どの程度の物なんでしょうね?僕はつい考えてしまいます。並の刑事は、事件捜査において想像力の不足にかなり足を引っ張られているんじゃないかと、常々そう思うんです」
「そりゃ素人考えというものだよ」栗崎氏がムッとして言う。
「栗崎さんは安心して任せられる専門家が必要なんだとお考えなんじゃありません?まあ、心理学だの想像力だのというのは、作家のセンセイにおまかせして、ね」
璃恵が皮肉っぽく禮介に問いかけたが、禮介は真面目な顔を崩さない。
「物を書くというのは人間性への洞察力を養ってくれるものですよ。ひょっとすると普通の人間なら見逃してしまう動機を見抜くということだって―」
「禮介さん」真古が言う。「確かにあなたの書く本はとっても良くできてるとあたくしは思いますよ、でもねえ、世の中の人たちって本当にあなたの書くような、嫌な人たちばかりかしら?」
「伯母さん」禮介は優しい声に聞こえるよう努めて言う。「伯母さんがそう信じておられるのは敬意をもって支持します、堂々と胸を張っていると良いでしょう。僕はそれをどうこうしようって言うんじゃありません」
「つまりね」真古は手元の編み目の数を数えながら続ける。「あたくしが言いたいのは、世間の人たちの大半は善でも悪でもなく、ただとんでもなくおばかさんだと、そういうことなのよ」
辺沢氏がまた咳払いをした。
「禮介君、きみはあまりに想像力を過信しているのではないかな?」眼鏡の縁の上から、辺沢氏の視線が禮介を捕らえる。「我々法律家は常々想像力というものを危険だと認識している。実在する証拠を積み重ね、事実を事実としてありのままに受け止める。これこそ真実を突き止める一番論理的な方法だと、私には思えてならないんだがね」
「ダメダメ!」璃恵が突然そう叫んで、いらいらしたように黒髪の頭をのけぞらせた。
「皆さん色々とおっしゃってますけれど、これに関してはあたしが一番に決まってます。何しろあたしは女流画家ですからね、女性には男性にはない直感というものが備わっていますの。更に画家は、人とは違った視点で物事見つめることができます。それだけじゃありませんよ、これまで様々な階級、境遇の人たちと交流してきましたから。そうね、ここにおいでのかわいらしいおばあちゃまにはとても想像がつかないような人生も知っていますわ」
「まあそうですか、でもねえ」真古は変わらない様子でそれに応じた「こういう何もない村の暮らしにも、時々はとても悲惨で随分胸が痛むような出来事があるものですよ」
「拙僧もよろしいかな?」
遍檀和尚はにこにこしながら口をはさむ。
「近頃はとかく僧侶を軽く見る御方が多くなりましたがな、それでも我々仏道に身を置く者は立場上、色々といやなことを耳にするものです。俗世間では秘して語られることもない人間の一面についてはそれなりに詳しいかと思いますが」
「なるほど?そうすると…」璃恵は一同を見まわして続けた。
「ここにいる皆さんはそれぞれが各自の専門分野の代表みたいなものね。どうでしょう、みんなで倶楽部みたいなものを作るって言うのは」
禮介がパッと顔を輝かせた。
「良いですね…週に一度くらい集まって、メンバーのうち一人が事件の問題を披露する。自分が経緯と答えを知っている謎を皆さんへの課題として出題するんです」
「素敵だわ」璃恵が言葉を続ける。
「今日は何曜日でしたっけ?火曜日だわ、じゃあ俱楽部の名前は『火曜俱楽部』…ええと今何人いましたっけ…?5人?ほんとは6人が良いんですけど」
「あたくしをお忘れよ」にっこりして真古が言った。璃恵はわずかに動揺したようだったが、そんな素振りは露ほども感じさせないよう取り繕った。
「素敵、まさか真古さんがこんなお遊びに付き合って下さるなんて」
「いいえ、とても面白いと思いますよ、あたくしはね」と、真古は言う。「これだけ頭の切れる紳士淑女がそろい踏みなんですもの。あたくし自身はそんな自慢できるようなおつむは持ち合わせておりませんけれどね、それでもこの三井戸村のような田舎に長く暮らしていると、人間の裏表が良く見えるようになるものですよ」
「とても心強い戦力ですよ、是非ご協力いただきたい」栗崎氏が丁寧な物腰で応える。
「では?どなたが先陣を切って下さいます?」璃恵が促した。
「それなら考えるまでもありますまい」遍檀和尚が言う。「幸い拙僧らには栗崎殿が…」
後を継げずに、和尚は栗崎氏を片手で拝んだ。
そう言われた栗崎氏は、しばらくの間黙っていたが、仕方ないとばかりに大きく息を漏らし、居住まいを正して口を開いた。
<続>
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