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『火曜倶楽部』〈2 事件〉

登場人物

登場人物

財前 真古ざいぜん まこ:老婦人
西門 禮介にしかど れいすけ:作家、真古の甥

栗崎 輪太郎くりざき りんたろう:退役警官
遍檀へんだん和尚:僧侶
蘭部 璃恵らんぶ りえ:画家
辺沢 陸生へざわ りくお:司法書士


定塚 或人じょうづか あるひと:製薬会社販売員
定塚 苑子そのこ:或人の妻
定塚 実里みさと:苑子の伯母

倉出くらで リン:定塚家女中
今泉いまいずみ 夫人:定塚家女中
小坪こつぼ 医師:診療所医師
 

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『火曜倶楽部』〈2 事件〉

「皆さんの求めておいでのような謎というのは、なかなか選ぶのが難しいものでしてね。しかしまあ、たまたま、条件にぴったり合うものを一つ知っています」
栗崎氏は肘掛椅子に腰かけたまま、脇の小机に紅茶のカップを置いた。
「一年ほど前、新聞にも多少経緯は出ていたと思います。当時は迷宮入りしかけていたのですが―この度、事件解決がこの私に委ねられたのです」
栗崎氏は胸の前で手を組み、少々居心地が悪そうに座り直した。
「事件としては至極単純な部類ですな。三人の人物が夕食を共にし、三人が三人とも体調を崩し、医者が呼ばれた。二人は回復したが、一人は——不幸にも命を落とした」
「なんと!」禮介が驚きと喜びのつぶやきを漏らした。

「繰り返しになるが、事件自体は単純でしてね。死因はプトマイン中毒…つまり食中毒ですな。死亡診断書もそういう内容で出され、埋葬まで済んだ。にもかかわらず、事件は終わらなかった」
真古が小さくうなずいた。
「噂が飛び交い始めた。いつものことですわ」
栗崎氏は大きくため息をついて、それを肯定の印とした。
「それでは、手始めにこの『ありふれた事件』の登場人物を紹介しますか——まずは一組の夫婦。定塚じょうづか夫妻としましょう、夫は定塚或人あるひと、とある製薬会社の販売員。歳は40がらみで見た目はそれほどでもないが、調子のいいちょっとした男前でした。一方、妻の苑子そのこ夫人はごくごく平凡な、取り立てて特徴はない小金持ちの女性。三人目は夫人の伯母で、定塚実里みさと。陽気でいつもにこやかにしていて、とても——ああ、ふくよかな女性です。こう言っては何ですが、三人ともどこにでもいる、取り立てて人の興味を引くような人間ではなかった」

栗崎氏は紅茶で唇を湿らせると話を続ける。
「定塚家には2人の使用人がおりましてね、年かさの女中…今泉いまいずみ夫人が事件の前夜、定塚氏の書斎から漏れ聞こえてくる電話で話しているらしい声を聴いたのが事の始まりでした。今泉夫人の証言を引用すれば——『まったく妻次第だ』『いずれ妻が死ねば金が』そして聞きとりづらかったそうですが『ごまかしを』とも言っていたと」
「まあ!」
ショックを受けたように、璃恵は手を胸に当てて顔を逸らした
「その翌日に『缶詰のエビによる食中毒』で苑子夫人が亡くなり、その頃ある男が財産目当てに妻を毒殺するという事件が起きていたこともあって、今泉夫人はあちこちでその噂話を広めるに至った。悪いことに定塚氏は町医者の娘と良い仲になっているという噂も手伝って、醜聞がくすぶり始めたというわけです」
煙草に火をつけ、一服すると、栗崎氏は大きく煙を吐いた。
「定塚氏への疑惑の目は日に日に増し、警視庁にも彼が真犯人であるという告発や捜査の落ち度を責める抗議の投書が相次ぎました。誤解を恐れずに言わせてもらえば、こういった抗議や告発にはひとかけらの根拠もありません、それこそ村の井戸端会議にも劣らない無責任な噂話です。しかしながらあまりに騒ぎが大きくなったため、事態を鎮静化させるために遺体の再調査が行われました」

「火葬にはされていなかったのですか」
辺沢氏が例の目つきで尋ねると、栗崎氏は頷いた。
「地域の風習が功を奏しました。瓢箪から駒が出る、嘘から出た実、と言いますがこれもその一例というのでしょうかな。改めて行われた解剖検査の結果、遺体から致死量の砒素が検出され、死因が砒素中毒であることが判明した。そこで警視庁と県警が協力し、事件解決に乗り出した、というわけです」
「ああ!」ため息交じりに璃恵が感嘆の声をあげた。
「面白くなってきましたわ!こんな話を聞きたかった!」

栗崎氏は煙草を灰皿でもみ消した。
「疑いは当然定塚氏に向けられました。彼は入り婿でしてね、世間の人々が妄想したような三文小説の筋書きの通り、妻が死ねばまとまった金が彼の懐に入るというわけです。彼には仕事以外に稼ぎはなく、その上、女好きで金銭感覚が無いときている」
「いざこざを生み出すために生きておられるような御仁ですな」
遍檀和尚が合掌して南無阿弥陀仏、と唱える。
「まず、我々は噂になっている町医者の娘との関係を探りました。しかし判明したのは、確かに彼らはかつて非常に親密であったものの、ふた月ほど前に急に風向きが変わり、一度も会っていないようだというのです。そして因果なことにこの娘の父親というのが、事件当夜、一報を受けて定塚邸にやって来た小坪こつぼ医師だった」
「ほう、入り組んできましたね」
わくわくした様子で禮介が言う。いつの間にか手にはブランデーのグラスが握られていた。

「事件当夜真夜中過ぎのこと、定塚邸からの一報で駆け付けると、定塚家の住人がそろって苦しんでいる。中でも苑子夫人の容体がただならぬ状態であったため、小坪医師は娘に命じて診療所の薬剤室から緩和剤を取ってこさせた。しかし治療の甲斐なく、夫人は死亡した。しかし小坪医師はそこに何らかの犯罪性はいささかも感じていなかったのです。ありふれた食中毒であろうと固く信じていた」
「その日、定塚家の方々が食べたものはなんでしたの?」
璃恵がとうと、栗崎氏は指折り数えながら答える。
「ええ…赤飯、三つ葉の吸い物、海老の真丈、鯉の甘露煮。あいにくどれも残っておらず、海老の缶詰の缶も捨てられてしまっていた。若い女中の倉出くらでリンというのがその夜の調理担当でしてね、問いただしてはみたが、かなり動揺していて要領を得ず、てんで話にならなかった」
「そうでしょうね、可哀想に」
真古が心から同情した口ぶりでため息をつく。
「それでも彼女が繰り返し言うことには、海老の缶詰は膨らんでいるとかの異変は一切なく、中身も異常がなかったと言うんですな。まあ、大体こういった事実を基に、我々は捜査を進めていくことになったわけです」
すっかり冷めてしまった紅茶を飲み干して、栗崎氏はひと息ついた。

「仮に、定塚或人が妻に何らかの方法で毒を盛ったのだとしても、その毒が料理に仕込まれていた可能性はまずない。三人が三人とも、同じものを食べているのですからな。更に、その日定塚或人は仕事で遠方に出かけており、帰宅したのは夕食が食卓に並べられたまさにその時だった。つまり、事前に毒を仕込む機会もなかったということになる」
「その…奥さんの伯母さんという方はどうなんですの?」
璃恵が紅茶を注ぎ直しながら聞く。「その——とてもふくよかだという?」
「定塚実里ですな、無論容疑者ではありますが、このような大それたことをするほどの動機があったとは思えないのです。苑子夫人は彼女に財産を遺しているわけではありませんし、金持ちの姪を殺しても、気前のいい財布を逃すだけで、痛手にしかなりません」
「だとすると、伯母さんは容疑者から外れますのね」
思案気に言う理恵に栗崎氏は首を振った。

「ところがそこで新たな事実が浮かんできたのです。事件当夜の夕食後、定塚或人が台所へやってきて、妻の具合が悪いようだから、葛湯を作るように言いつけたというんですな。そしてそれを自ら運んで行ったと。まあ白状しますと、それは安堵したものです、ああこれでめでたく事件解決だとね」
それを聞いて辺沢氏が頷く。
「まずは動機ですね」指を折る。「次に機会。製薬会社勤めなら、毒物を手いれるのは容易であったでしょう」
「更に、特が高いとは言えぬお人柄でもある」と和尚が付け足した。
「ううん…どうもひっかかりますね?」禮介が栗崎氏を注意深く観察しながら言う。「そこまで全てがそろっているのに、何故彼を逮捕しなかったんです?」
その言葉に栗崎氏は苦笑いをする。
「それがまさにこの事件の難点だった。ここまでとんとん拍子に進んできたのが急転直下八方塞がりというわけだ。定塚或人を逮捕できなかったのは、定塚実里の証言の為だったのだよ」
「ここで伯母さんの登場ですか」
「うむ。定塚実里が言うには、例の葛湯は苑子夫人ではなく、彼女が飲んだというんだ!曰く、彼女は体調を崩していた苑子夫人を心配し、部屋を訪れた。すると夫人はベッドの上に半身を起こしており、傍の小机に葛湯の入った湯飲みが置かれていた——

『ちょっと具合が良くないんですの、伯母様、ちょっと調子がいいからって夕食に海老なんて食べるから罰が当たったのかしら。或人さんに葛湯を作ってもらうように頼んで届けてもらったけれど、今はもうとても飲む気になれなくて』

『それはいけないわねえ。あら勿体ない、とってもきれいに出来ているわ、ダマも一切なし。リンちゃんはほんとに料理上手ねえ、最近の若い子と来たら、満足に料理もできない子がほとんどだというのに。ねえ苑子さん、良かったらこれ、いただいてもいいかしら?』

『まあ伯母様…良いんですの?あまり食べ過ぎると——』

——定塚実里はまあ見た目通りに少々高血圧気味でしてね、医者から食物制限の指導を受けているということでした––

『葛湯の一杯くらい平気よ、いつも頑張って節制していますからね、大体私がこうやって太るのはきっと神様の思し召しですよ、これが神の御心なら私はそれに従います』
『それならどうぞ召し上がって、葛湯はお腹もちも良いでしょうし、それで万事丸く収まりますわ』

——そういう次第で、疑惑の葛湯は定塚実里のお腹に収まってしまい、夫への疑惑は一気に崩れ去った。例の電話の件にしても、取り調べで話題に出した途端、水を得た魚のように話し始めた」栗崎氏は忌々しげにむっつりとした顔で続ける。「『それは投資を勧める営業の電話だった』とね『どこの誰だったかはもう覚えてもいないが、こう話したことだけは覚えている』『金銭面に関しては全く妻次第だ、いずれ妻が死ねば金が遺産として入るだろうが、それまではどんなごまかしをしても自由になる金はない』と言って断ったのだとか」
禮介がすかさず口を挟む。
「通話の記録などは調べたのですか?」
「無論だ、しかし、定塚邸にかかって来た電話はとある酒場からのものでね、人の出入りが激しく、誰も電話を使っていた者を覚えていなかった」
ううん、とうなって禮介は続けた。

「ではそれで事件は振出しに戻ってしまったわけですか」
「左様その通り。我々もまさか何の根拠もなしに定塚氏を逮捕するわけにもいかなかった」
やや沈黙があって、璃恵が口を開いた。

「——それで、お話はそれだけ?」
「そこまでで一度捜査が止まっておったのです、昨年中は。しかし今現在、事件の真相は明らかになり、警察がそれを握っています。まあ恐らく数日中には世間の耳目にさらされるでしょうな」
「真相…ですか」璃恵が思案顔で呟く。「こうなると何としてでもそれにたどり着きたいものだわ、どうでしょう皆さん、ここはひとつ、時間を取って各々推理をしてみるというのは」
「そうですね、制限時間は5分。その後各自の考察を述べてみることにしましょう」
禮介が腕時計で時刻を確かめ、推理の時間が始まった。

〈続〉

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