スユ+ノモでの気づき
ガザへの本格的な空爆が始まったのは、スユノモでのパフォーマンス上演が決まり、10月18日に韓国に渡航するための準備に追われている時だった。
慣れない渡航手続きにあたふたしている間にも、子どもの死傷者の数がどんどん増えていく。
私は在日朝鮮人3世だ。
北朝鮮に伯父や従姉妹などの血縁が暮らす。
世界に活動の場を広げるため、数年前に朝鮮籍から韓国籍に変えたが、彼らを裏切ったようなような気がしていて、今も気持ちは晴れない。
そんな苦渋の決断を経て得た韓国への渡航なので行かないわけにはいかないけれど、ガザで学校や病院までに爆撃が落とされる報道の中、もっとやるべきことがあるのではないかと後ろ髪を引かれる気持ちで下関から釜山へ渡る船へ乗り込んだ。
人々が物質的な安楽を求めて見ないふりをし、打ち捨てられ、世界の歪みを残虐なやり方で少数の者たちが一身に引き受けている姿は、ガザの民と朝鮮の民とで共通していると感じている。
だから、今回も私は彼らを裏切るようにして贅沢をしに韓国に行くのじゃないかと、自分を責めるような気持ちがあった。
今年は関東大震災から100年目にあたり、舞踏家である私は、虐殺被害者の感情を身体に表出させる小さな作品を、9月1日に自分の暮らす岡山市で上演した。
大地震という災害に便乗して”朝鮮人だから”という理由で拘束され殺された人や殺された家族を持つ人がどんな気持ちだったかを考えた時、今、日本で在日として暮らす私の苦しみや恐怖と、大小の違いこそあれ質は変わらないのだと思った。
あの大虐殺は100年前の大昔にあった想像もできないような出来事ではなく、現在の日本で、歴史修正主義が蔓こりヘイトクライムがどんどん悪質化と増加を辿っている中で、近い将来同じことが起きても全く不思議ではないリアルが、今を生きる在日の私の中にあるということを確信した。
なので、関東大震災の虐殺被害者を踊るという看板ではあるが、自分自身の感情をそこに表現すればそれに叶うものとなった。
怒り、悲しみ、憤り、恐怖、そのような負の感情を持つことがタブーである日本社会の中で(歴史修正により、虐殺などなかったし、差別はないとされている)、多くの日本人観客に対して突きつけるようにして、感情を激しく身体に表出させて踊ることをした。
幸いだったのは、ひどいバッシングを受けたり社会的に抹殺されることも覚悟していたが、多くの日本人の友人たちが心を寄せ、理解を示し、協力をしてくれ、私の気持ちを受け止めてくれたことだ。
そして、これを岡山以外でも、海外でも上演をするべきだと言ってくれた。
応援してくれる友人たちに応えることもあって、ぜひスユノモでパフォーマンスをさせてもらおうと思った。
韓国に入ってから11月4日の上演日までは、群山の米軍基地建設反対の平和行進に参加をし、韓国で共同体を模索する人たちの話しを聞き、田舎での過疎の現状に触れたり、博物館で三一独立運動の資料を観たりしながら、スユノモの関係者や友人たちと美味しい韓国料理やマッコリを楽しみながらたくさんの話しをした。
パフォーマンスの共同製作者のムーミンさんとは、済州島の四.三事件の調査や米軍基地建設で廃村となった村で採集した音を交換し、言語の壁を超えて、お互いの身体を震わせる事について交感をすることができた。
そんな韓国滞在の中で、関東大震災の虐殺も、在日としてレイシズムの対象として晒されることも、群山の基地のために住んでた村からの立ち退きを強制されることも、済州島の虐殺事件のフィールドワークで韓国の若いアーティストの心が震えてしまうことも、全部同じ脈絡の上にあるのだと確信するようになった。
そのような確信とともに踊った11月4日のパフォーマンスは、構成や選曲、仕掛けなどは9月の日本での上演とほぼ変わらないものの、観客に突きつける感情から、共感を求める感情表現への変化があった。
私のソロパフォーマンスが終わり、ムーミンさんに場の誘導をバトンタッチをした後は、彼女の優しく繊細な受け止めるような糸のワークと、観客の方々も即興的に巻き込んでの共同制作となった。
共同制作の中でみなからもらったメッセージは優しさで溢れ、そのメッセージを使ったシンプルな遊びの中では慎重さの中に温かい笑いもあって、表出した糸と紙で作った世界はなんて美しいのだろうと、感激した。
パフォーマンスの誘導には拙い部分が随分あったと思うのに、あのような柔らかな優しい時間をスユノモのスペースで経験できたことは、私がこれから先生きるための励みになると思った。
このアンサーが欲しくて、私は韓国に踊りに来たのだとさえ、思った。
この上演の後も少し韓国に残り、障害者運動の担い手の方にお話しを聞いたり、労働者運動の有り様について教えていただいたりしながら過ごした。
スユノモの先生に、テリムドンに連れて行っていただいた。
日本のチャイナタウンは観光地化されたテーマパークのようなところなのに、そこは多くの朝鮮族が暮らし実際に機能している生きている市場だった。
初めて来る場所なのに、違和感をぜんぜん感じず、細胞レベルでしっくりきていると感じた。
センマイの刺身が大量にバケツに入れて売られているのを見て、アボジがこれを大好きなことを思い出した。
なぜ、もっと早くここに連れてきてあげなかったのかと、後悔した。
彼はもう年を取り過ぎて自分の足で歩いてここまで来れないだろうと思うと、涙が溢れた。
国籍の問題があったとは言え、私はなんであんなに韓国を遠い場所だと感じていたのだろうかと不思議でならない。
こんなに近くて、肉とニンニクと唐辛子の食事が口にあって、人々との交流で癒されて、日本では差別で心が縮んで空っぽだった身体に何かが満ちて元気がいっぱいになるというのに、なんでもっと早く来なかったんだろうと思った。
そして、一昨日、下関に船は戻ってきた。
麻薬犬に疑われ、荷物を開けられ、調査を受けた。
ありがとうとすみませんを慇懃に繰り返す職員に、うんざりした。
そして、久しぶりに日本のWi-Fiを繋ぐと、血まみれで放心している、ガタガタ震えている、もう命が抜け出てしまった身体、そんなガザの子どもたちのショート動画が大量に流れ込んでくる。
そして、スターバックスやマクドナルドで何事もないようにカップルがデートをしているのを見つけて、怒りがこみ上げてくる。
韓国にも、スターバックスやマクドナルドはあるだろう。
でも、それが私の苦しみへの無関心と重なって、ここ日本では虫酸が走るほどの嫌悪感を引き起こす。
私の旅は終われないのだと、強く決心する。
もしかしたら、元凶であるアメリカでこそ踊らなくてはいけないのかもしれない。
スユノモでの滞在は、私にこのような気づきと次なるミッションを与えてくれた。
スユノモの先生方、ありがとうございます。
また、お伺いします。