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【小説】ホテル・カリフォルニア#6

第6話:登って下りるだけ


 あなたの『たまに出かけたくなる病』が再発したのは、三ヶ月ほど前のことだ。私がソファに横になっていると、キャップを被ったあなたが上から覗きこんできた。

「山に登りたい」
「どこの山? 高尾山?」
「富士山」
「富士山は遠すぎるし高すぎる。高尾山くらいがちょうどいいと思うの」
「じゃあ高尾山にしよう」

 翌週の土曜日、二人で高尾山に出かけた。私は初め乗り気ではなかったけれど、登山用のウェアやリュック、靴を買い揃えるうちに遠足前の小学生みたいに待ち遠しくなり、ネットで高尾山の歴史や美味しいとろろ蕎麦のお店を夢中で調べ尽くした。

「これまで高尾山に来たことは?」

 高尾山口駅を出て歩く途中、あなたが訊いてきた。

「今日が初めて。登山とは縁がなかったの」
「なら一号路がおすすめ。薬師院があって、お店もあって、賑やかだし登りやすい」
「でも私たち、フル装備なのよ。ちゃんと山を楽しまなくちゃ」

 私は麓のマップを眺め、いくつかあるコースのなかから六号路を選んだ。

「これにしましょう」
「けっこう大変なコースだけど」
「二人ならきっとやれる」
「オーケー。じゃあそうしよう」

 私はあなたのほうを振り返って笑った。あなたはスマホを構えていて、私の笑顔をすかさず撮影した。ウェア、よく似合ってるよ。あなたにそう言われただけで、来てよかったと思った。

 六号路は最初こそ舗装された道路が続いていたが、すぐに石だらけの歩きづらい道に変わった。私はなるべく平らな部分を踏んでゆっくり歩き、あなたは私のペースに合わせてくれた。ほかの登山客とすれ違うと、私たちは笑顔で挨拶した。

 途中、橋を渡ったり、ベンチで休んだりしながら私たちは進んだ。ときどき登山路とぶつかる川はその場所その場所によって水量が異なっていた。何番目かの橋にさしかかったところで私が川のすぐそばに下りると、あなたもそのうしろに続いた。

 ちょろちょろと流れる水に手を沈めてみた。水は冬の針のように冷たかった。あなたが手で水をすくって飲んだので、私も真似てみた。透き通った味が全身にしみわたるようだった。

 この水がやがて海に流れ、しょっぱい海水に変わることを想像した。海の水がしょっぱいのは、川から流れる水に土や岩のなかのミネラルが溶け出すからだと以前あなたが教えてくれた。

「大丈夫? 辛くない?」

 あなたはしゃがみこんだまま訊ねた。

「大丈夫」私はもう一口水を飲んだ。「あなたはぜんぜん平気そうね」
「高校時代、登山部だったんだ」
「知らなかった」
「昔の話はしなかったからね。お互いに」

 あなたは笑った。少し寂しそうな笑みだった。

「語るべき思い出がないの。とくに高校時代には」
「じゃあ、最近のことを話してほしいな」
「お母さんに新しい恋人ができたこととか?」
「それ、本当?」

 あなたは信じられないといった様子だった。

「残念ながら」私は苦笑した。「もう五十八よ。いい加減に落ち着いてほしいとは思うけど、母も相手も独身だから法律上の問題はない」
「人はいつだってなにかに挑戦する権利を持ってるものさ」
「たとえば、二十七になって登山を始めた女とか?」
「最高だね」

 私はあなたから差し伸べられた手を握り、立ち上がった。

 ふつうなら一時間半くらいの道を、私たちは二時間半かけて登り切った。山頂は雲一つない快晴で、風が涼しかった。展望台からは遠くの山並みが一望でき、それらの山々よりも高いところに自分がいるのだと思うと、言葉では言い表せない達成感をおぼえた。私たちは勝者の証しとしての景色をしばらく堪能してから、近くを歩いていた家族連れの男性に頼んで写真を撮ってもらった。

 山を下るとき、あなたはリフトを使うことを提案した。私は歩けると言ったが、あなたは首を横に振った。

「きみ、少し疲れた顔をしてる」

 私は少し物足りない気持ちになりながらもその提案を飲んだ。しょうじきなところ、口ではああ言ったものの、麓まで歩いて戻るのはきついと思っていた。といっても、リフトを使うとしても乗り場まではそこそこ歩かなければならないのだったが。

 二人乗りのリフトは想像していたよりもずっと高いところを進み、私はなるべく足元を見ないようにしながら、あなたの手を強く握りつづけた。

「登山って、ただ登って下りるだけだと思ってた」

 リフトを降りたあと、まだ達成感の余韻に浸っていた私はやや興奮した声で言った。もう地に足がついているが、私の手はあなたを離そうとしなかった。

「実際にやってみると、楽しいことも多かっただろう?」
「そうね。登山のほかに趣味はあるの?」
「長野の実家にいたころは、天体観測をよくやっていた。はしごをかけて屋根に上がって、星をずっと眺めるんだ」
「ただ登って下りるだけではない?」
「やってみればわかるさ」

 私は実家の屋根に寝転がって、星空を仰ぐの自分を想像した。隣にはあなたがいて、いまみたいに私の手を握っている。星空を見上げながら、私はその手を何度も握り返して、最もしっくりくる握りかたをみつけようとするだろう。あなたは反対側の手で星を指さしてあれが何座だとかこれが大三角形だとか教えてくれるけれど、私の意識は星ではなくあなたの手に集中している。やっぱり登って下りるだけじゃないかと、私はがっかりするだろうか。それとも、あなたが隣にいてくれるだけでじゅうぶんだと思うだろうか。

 もしかすると、私たちの関係もまた、登って下りるだけなのだろうか。だとしたら、山頂はいつだろう。いまは登りと下り、どちらの道だろう。そんなことを考えているうちに、日が暮れてあたりは暗くなりはじめていた。

 東の空に輝く一番星を見つめながら私は言った。

「天体観測はやめましょう。それよりも、あなたとたくさん話がしたい」
「話ならいつもしてるじゃないか」
「でも、あなたが登山部だったって知らなかった。私たちのコミュニケーションは不十分」

 私はあなたのあごを持って、こちらを向かせた。

「ほかにも内緒にしていることは?」

 私はなるべく冗談めかして質問したつもりだったが、あなたのあごをつかんだ手は小刻みにふるえていた。もちろん、寒さとは別の理由で。あなたはすぐには答えず、私たちは長いこと至近距離で互いを見つめつづけた。沈黙が何度も私たちのあいだを往来し、登山帰りの人たち何組かに追い越された。あなたはゆっくりと唾を飲みこみ、それが喉元を過ぎていく感覚が私の指にも伝わってきた。

「ないよ」

 と言って、あなたは私から目をそらした。

「そう。ならいい」

 私は周囲に人がいないのを確認してから、あなたにキスをした。そして駆け足で駅へと向かった。


【目次】


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