なぜVtuberは「魂」が重視されるのか?~コンテンツとしての「切り抜き」と、「生っぽい関係性」

前回の記事は多くの方の目に留まったようで、私自身、感想や反応で学ぶところが多かった。
同意してくれた方、批判してくれた方、感想をくれた方。いずれもありがとうございました。

その中で、「なぜVtuberは魂(演者)で見られがちなのか」という感想があった。
設定やそれを軸とする物語を持つVtuberがなぜ不遇をかこつのか、という嘆きの裏返しでもある。

これは当然の疑問だと思う。今回の記事では、その問いに私なりに応えるかたちで、着ぐるみ的Vtuberが主流となった経緯について考える。

かつてVtuberは「不滅の広告塔」と目された

Vtuber界隈を代表する存在であるキズナアイが、地上波テレビへの出演などで社会的な認知を得るようになった2018年ごろ、Vtuberは現在とは違う形になると目されていて、それは特にビジネス方面から熱い期待を寄せられていた。

タイトルにあるとおり、インタビュイーである近藤義仁氏はVtuberを「広告の在り方を変える」とビジネスの面で高く評価していた。それは、「スキャンダルがそもそも起きようもない」ことや、「ゆくゆくは姿を視聴者の好みに設定できるようになるだろう」という技術的に新奇だったからで、リアルYouTuberの延長として見られていることに不満を示していた。

しかし、この想定はいくつか成り立たなかった。

Vtuberのスキャンダル、プロ演者の忌避

例えば、大小様々なスキャンダルが起こった。その中でも耳目を引いたのは演者と事務所間のトラブルで、演者がSNS等で告発する、というケースだった。その理由はコミュニケーション不足や配慮の欠けた待遇など様々だったが、その中でも、後に演者が変更になったことで潮が引いたように大きくファンを減らしたゲーム部の一件は、Vtuber業界において中の人の重要さを知らしめたと言って良い。

同時にこの一件は、演者にとってVtuberが魅力的でないというイメージを作った。
例えば、声優や役者のようなプロとして演技を行う人々から見たとき、Vtuberは誰が演じているかを明示しないというデメリットを抱えることになる。これは演技者として活動の幅を広げたい場合、キャリア形成に繋がらず、Vtuberを引退したら後がない、ということを意味する。

この一件からゲーム部運営は2019年9月から制作関係者のクレジットを表記するようになったが、一方で、Vtuberという「仮想」を謳った存在にクレジットを付ける、ということは、現在でもVtuberの運営側にとってもリスナー側にとっても抵抗感が強い。

その結果として、素人の演者が主流となり、現在のような「ゲーム配信」「雑談配信」がメインコンテンツの、「成長」を通底音とするVtuber文化が優勢となったのではないだろうか。

私は、コンテンツが消費者を理由に生まれることはかなりのレアケースか、あるいはジャンルとして確立してからだと思っている。

私はエロ小説の書き手なので、界隈にいるとよく耳にする表現として、「性癖を植え付けたとか言われるけど、元々あったものを汲み取ったにすぎない」というものがある。
そこまで作者は器用なものではないだろう、というのが実感で、「売れたのは消費者のおかげ」だが、最初に作るのは「これ面白いんじゃね?」というクリエイターの発意だ。マーケット調査をやって作ったものが売れました、というのはそうそうない(それなら出版社はもっと利口に本を売っているはずだ)。

現実として、コンテンツが供給されることで需要が判明するという因果関係にあると思う。

では、Vtuberにおいての最大の「供給」とはなんだろうか?
――それが、もう一つのVtuber文化の立役者である「切り抜き」の存在だ。

「切り抜き」が導いたVtuberの拡大

Vtuberを「切り抜き」というかたちで世に知らしめたのは、言うまでもなく、自身もVtuberである月ノ美兎の存在が大きい。
デビュー直後の彼女は「ムカデ人間」への言及や劇団ヨーロッパ企画による実写フラッシュゲーム実況などで一部から人気を得ていたに過ぎず、その知名度は他のVtuberに比べて決して高くはなかった。

しかし、彼女がyoutubeに投稿し、第三者が転載した「10分でわかる月ノ美兎」が人気を博したことでその知名度は跳ね上がった。

配信内容をコンパクトにまとめたコンピレーション動画は、「切り抜き」と呼ばれ、Vtuberファンにとって「推し」を広報できる手段としてポピュラーなものになり、「切り抜き」を専門とする動画投稿者も現れた。

「切り抜き師」とVtuberは相互に連関しているといっていい。個人でも人気切り抜き師がいれば登録者を伸ばすことができる。

「切り抜き」は長時間の配信の内容をコンパクトに知れることもあって、ファンにとってもありがたいし、同時に配信準備等に追われるVtuberにとってもありがたいものだ。事実、Vtuberの中には別のVtuberについて知る手段が「切り抜き」になっていると言及しているものも多い。

特にグループ内の所属メンバーが多いにじさんじは、グループ内で喋ったことがない、コラボしたことがない人について、「○○って切り抜きで知ってる」と発言することがままある。

「切り抜き」が強調する「生っぽい関係性」

切り抜きの対象になるのは、配信内の見せ場や複数の配信での発言だ。そこには「てぇてぇ」と形容されるコラボ内での発言まとめも含まれる。
初期のにじさんじの躍進は、月ノ美兎個人がバズったことと、2018年4月末から5月頭にかけて開催されたニコニコ超会議での、彼女と樋口楓のコンビ=かえみとが認知されたことが大きい。

この「やめとけ」は、樋口楓が前日の月ノ美兎との配信内容を「イジられた」と思ったことから生まれた珍事であったが、全く偶然の出来事であったとはいえ「生っぽい関係性」と捉えられ、これ以降、“かえみと”はコラボ配信等の枠を越えてコンテンツ化していった。

ここでいう「生っぽい」とは、実在性を感じさせるということと、「本当はそういう関係なのではないか」と推測させるということだ。感覚としては、たまたま一緒にいた男女を軽率にカップル認定する行為に似ている。

この出来事は、にじさんじの「売り出し方」を決定づけたといっていい。

演技や配信内容などの実力がある演者だけでなく、出来ることが極端な、「尖った」演者等を混ぜて組みあわせることで人気を獲得する。同グループの特徴として「グループ/ユニットの中で役割を持ったことで人気を博す」Vtuberが多いという点が、その証左だ。

では、この「生っぽい関係性」という売り出し方がされていくなかで、「物語」を背負ったVtuberの立ち位置とはなんだろうか?

「生っぽい関係性」と「物語」の相克

「関係性」の特徴はその不透明感にある。台本のないやりとり、終わってしまうかもしれないという不確実性。ほとんど形だけの「同期ユニット」が不意にユニットとして活躍することの面白さ。いずれも予測不能なことだ。

一方で物語は受け手への問いかけが特徴にある。展開への考察、ある種の謎解き、そして完結すれば、「あなたはどう感じましたか」という問い。――それは物語相応の「重さ」を私たちに投げかける。

前回の記事で取り上げた出雲霞はこの関係性と物語の融和を試行錯誤してきた、といっていい。

当初の物語では同期内ユニット「OD組」を取り入れ、AIという「再設定」を行った後は黛灰とのコラボを補助線にグループ内ユニット「SF組」を自身の終わりの物語の中に組み込むことも試みられた。卒業発表後での黛のTwitterでの反応や、同じくTwitter上での夕陽リリとのやりとりは「物語」の外にある彼らの関係性を感じさせた。

しかし、それは同時に台本の有無を意識される。意地の悪いことかもしれないが、物語に関係性を取り入れるということはそこに作為を感じさせることとなり、俗にいう「営業」の影がちらついてしまう。

また、「物語」に非公式の切り抜きが付くことは稀だ。これは切り抜きが「整理されていない文脈を理解させる」ために行われるファンの推し活という側面から、「物語」を経過中にまとめることはファンにとっても進行の妨げになると遠慮させるところがあるからだと思われる。ファンは、声をあげることで影響を及ぼしうるという意味で、Vtuberというコンテンツに手が届くところにいる。

その「生っぽさ」こそ、私たちにVtuberを観させる魅力なのではないだろうか。

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