東尋坊と"死"と余談
帰りの車内で彼は「他の未経験の人とも行くことはあるが、魚突きというニッチな趣味を始めてくれる人は中々いない」と話してくれた。
確かに、自分はそれで思うことがあった。
今までの自分にとって、海は「見るもの」だったし魚は「食べるもの」だった。
しかし、実際はじめて海に潜って魚の群れを見ることで、海は「入るもの」で魚は「生きているもの」だと視野が広がった。
魚突きを始めるには、そういう段階が必要で、海を「見るもの」→「入るもの」→「潜るもの」……という風に実際の体験を踏まえながら、視野を広げていく必要があるのではないか、と。
初めて自分は海に潜ったが、プールなどと違って息をするのも中々に大変だった。
足のつかない場所も多くあるし、なにより波があって流れがある分、海から顔を出して息をする、そのコツを掴むまでにかなりの時間を要した(彼によれば溺れかけているように見えたらしい)。
それに自分はゴーグルをつけていたが、いかにシュノーケルが大事かよくわかった。
海中で魚(獲物)を見ながら泳ぐにはシュノーケルが一番効率が良いのだ。
ゴーグルだと一々顔を出して、また海に浸けてを繰り返さなければならない。そのうちに魚は泳いでどこかに行ってしまう。
そうして彼の装備に比べると、いかに海パンとゴーグルの姿が海潜りから遠いかがよくわかった。
そもそもの海に対する認識が違うから、こういう装備の違いや視野の違いが生まれるのだろう。
だから魚突きに至るまでにはそれらの過程や段階を一つ一つゆっくりと踏んでいく必要があるのだ。
まず自分は海で「息をすること」「潜ること」などに慣れて行かないと次のステップにはいけないのだ。魚突きまでにはまだまだ程遠い段階を踏んで、視野を広げていかなくてはならない。
少し話は脱線するが、コレは風俗なんかにも同じことが言えるのではないか。
若いうちからパパ活なんてしていると、風俗で働くことに抵抗がなくなるのはそういう視野の柔和が影響しているのだろう。
つまり、セックスに対する見方が「想像する(未経験)」→「金を稼ぐためにするもの」という商業的なものに変化を経てしまっている。
パパ活を経なければ「想像する」→「恋をする」→「付き合う」……というような段階を踏んで、セックスはより高尚なものになり、風俗で働くには認識からして、なかなかハードルが高いものになるのではないだろうか。
そして、その視野の段階の変化はまた上書きされていくものでもある。
フロントガラスにぶつかった虫の話でもあったが、自分にとってそれは「夜中に車を運転していて、フロントガラスに虫がぶつかって死んだ」という一つの風景として捉えていた。
しかし、彼にとっては「○○という蛾が死んだ」という"虫の死"として記号化が成されたより細分化された捉え方なのだ。
そうして一度その記号化が成されてしまうと、最初のように風景として捉えることがより難しくなってしまう。
ピカソや岡本太郎が「子供の絵は天才だ」と言っていたのはこの点にあるのだろう。
子供は風景を風景として、純粋なものとして捉えることができるのだが、大人になるにつれ、記号によって意味が上書きされ純粋なものの見方が段々できなくなってくる。
「視野が広がる」というのは、"広がる"のではなくて逆に"狭くなる"ことを言うのだろう。
それはいい意味でも悪い意味でも風景が細分化され専門化され、風景的な見方ができなくなることでもある。
ということを車を運転しながら考えていて、非常に有意義な時間を過ごせたと思う。
また話は変わるが、
最近、自分は井上靖の『補陀落渡海記』という小説に触れる機会があった。
あらすじをそのままに説明すると「熊野補陀落寺の代々の住職には、61歳の11月に観音浄土をめざし生きながら海に出て往生を願う渡海上人の慣わしがあった。周囲から追い詰められ、逃れられない。時を俟つ老いた住職金光坊の、死に向う恐怖と葛藤を記す作品」である。
簡単に言うなら、ここでいう「渡海」は"死"を意味している。
金光坊が渡海するまでにも幾人かの上人が渡海をしているのだが、金光坊は彼らの表情や言動行動を思い返し、彼らが死の間際に何を思っていたのか、それを理解しようとする。
そして実際、渡海(死)に際して、彼は何を思ったのか。
ということが精緻に描かれている。
たかが40頁ほどの短編小説なのだが、東尋坊で死について考えていた自分にはこの内容が直に刺さってしまったのだ。
それでなくともかなりおもしろい小説だった。
死というものを考えている人には、是非読んで欲しい。
ということで、以上が東尋坊から一連の余談であった。
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