キュビスムとはなんぞ? はだかの村上隆 『キュビスム展&もののけ』より
3/20から京都市京セラ美術館で開催されている『キュビスム展』に行きたかったのですが、中々都合が合わず最近まで見送り……。
そして今日ようやく見に行くことが出来ました!
キュビスムの自分なりの理解と考察、感想を拙文ながら書き残しておこうと思い、今現在キーボードをカタカタ叩いています。
また村上隆『もののけ』にも行ってきたのでそっちの感想も載せとこうかなと。
そもそも大本命は『キュビスム展』なのですが、同時開催されている『村上隆 もののけ 京都』のチケットを知り合いが持っていたこともあり、ついでに村上隆も堪能しとくかくらいの気持ちでした。
村上隆というアーティストは、自分にとっては名前を聞いたことがあり作品もちょこっと見たことあるくらいで、日本や世界における現代アートの大家というイメージなのですが、古典至上主義の自分としてはキチガイ犬のように「グルルルルッッ!!!」と斜に構えて懐疑的態度で臨んでいるアーティストでもあります。
要するにあまり彼を認めていませんでした。どうせ人口に膾炙しているんだろうと。
龍だの、春樹だの、なんだよ村上村上って持て囃しやがってみたいな。
もちろんそんな不平不満も彼の作品を見るまでは、ですが……。
そうした心持ちで京セラ美術館に直行した訳です。
京都市京セラ美術館へ
到着してすぐどちらの展覧会から回るかですが、多くの芸術品を見るのは精神力と思考力を持っていかれます。
なので先に『キュビスム展』に向かいました。村上隆は後回しです。
村上隆なんかに初っ端からパワーを使いたくありません。
村上隆くらい残った体力でさらっと鑑賞すればいいやくらいの気持ちで、意気揚々と『キュビスム展』の入場ゲートをくぐります。所詮村上隆なので。
この『キュビスム展』では、主役のピカソやブラックからキュビスムの発展と起こり、戦後のキュビスムの様相まで、作品と共に歴史の流れを追随することができます。
当時は風景や人物の写実画が主流で、そこに新鋭として出現した *キュビスムの表現技法はやはり衝撃を与えたそうです。
「出る杭は打たれる」というように最初は理解されず揶揄も半端なかったそうなのですが、サロン・キュビスムなどドンドン後進が現れていき徐々にキュビスムは芸術としての地位を確立していきます。
自分のお目当てはピカソよりもやはりジョルジュ・ブラックでしたね。
キュビスムで有名なのはピカソだが、キュビスムの生みの親はブラックという認識でした。
またピカソの作品は過去に見た経験があり、ブラックはまだ見れていない状態(記憶上は)。初ブラックでウキウキな訳です。
いざキュビスム展へ
意気揚々と『キュビスム展』に入場。
まず目の前に現れたのはポール・セザンヌ。
セザンヌの絵は他の美術館でも何度か目にした記憶があるのですが、そこまでキュビスム的な絵を描いている印象はありませんでした。
で、実際も「ふーん」と見て素通り。
足早に次のチャプターへと移動します。
そして、そこでは誰が見てもキュビズムの起源だとわかる絵が置かれていました。
というかキュビスムって言ったらこいつだろみたいな。
そうそう、ピカソ。
ピカソの描いた『女性の胸像』です。
これはピカソがプリミティブの影響を受けて描いた絵です(と横の説明書きにあった)。少々不気味ですね。
プリミティブというのは和語「未開・原始」から分かるように、先史時代や未開民族の部族社会における造形物のことを表しています。
パッと想像するアフリカ民族なんかがそんな感じですね。その人たちが作った造形物をイメージするとわかりやすいんじゃないでしょうか。
またプリミティブは案外私たちとも近しいもので、日本にも縄文時代から「木や石などすべての物のなかに魂が宿っている」といったアニミズム信仰があり、その思想に基づいて作られたであろう縄文土偶などを思い浮かべてもらえばより理解しやすいと思います。
当時の価値観は西洋中心主義で、プリミティブは「文明や文化も遅れている野蛮社会」と見られていました。
このプリミティブにいち早くアートとしての価値やエネルギーを見出し、自らの絵にその精神を注ぎ込んだのがピカソなのです。
また西洋中心主義の見方が文化人類学者レヴィ・ストロースの構造主義によって打ち破られるのはそこから50年後の話になります。
その50年前にプリミティブに価値を見出し、その精神を自身の絵に加えたピカソはタダ者ではありません。
上の画像が実際『キュビスム展』で展示されていたプリミティブの彫像になります。
素朴ながらも生き生きとしたエネルギーを感じます。ピカソはこういった作品に影響を受けたわけですね。
どこかピカソの描いた『女性の胸像』に面影を感じませんか?
自分が思ったのは、このプリミティブな彫像は一見立体的ではあるものの、よくよく見ると平面的な様相を呈しているということです。
どういうことかというと、この彫像をそのまま絵に描いたとしても違和感なく平面に収まってしまうということです。
つまり、この彫像の立体的な身体的特徴を表す顔のパーツや性器、手足のすべてが絵に収まり、プリミティブなものそれ自体が絵の中でも二次元に立体として存在しています。
それはまるで生き生きとしたエネルギーを放っているかのように。
こうしてピカソはプリミティブからヒントを得て、絵の中に "立体的な平面" を作り出すことに成功した訳です。
それがのちに「三次元の物体(立体)をどう二次元(平面)で余すことなく表現するか」という挑戦に繋がってきます。
要するに「写実的に『手』を描いたとしても手の甲か手の平しか描けないけれど、手の甲だけでなく手の平も表現した『手』を描いてやる」というのがキュビスムの潮流なのです。
よく世間体が想像するキュビスムの絵の表現は、なるほど、これが原点になっているのだなと納得できます。
そして、この次にブラックの『裸婦』に立ち会いました。
「あ、やべえ、この絵すげえ」と呆気に取られ、五分間ほど足が動きませんでした。
ところで、自分のクセというか、すんごいアートに立ち会うと忘我状態になってしまって精神の全てが絵の中に取り入ってしまうんですよね。
思考も視点も、四肢や意識も全てが置き去りになってどこか別のところに精神が没入してしまう。
精神が戻ってきて見終わったころには眼精疲労がたんまりなんですが。
この絵を見て自分が凄いと思ったポイントはまず "全身が余すことなく描かれている" というところにあります。
描かれ方が写実から逸脱しているのはそうなんですが(一見するとマッチョに見えるし)、一番目につく部分として、背中とお尻といった背面全体が描かれているのにも関わらず、お腹と胸といった表面全体も同時に描かれているというのがこの絵の大きな特徴になっていると感じました。
写実的に身体を描こうとすれば表面か背面のどちらか一方だけしか描けないのに対し、ブラックのこの絵は表面と背面の両方を描きながら身体全体を表現しているんですよね。
よく見ると右腕と左腕も全体を描き切っているし、両足も全体を描き切っています。よくよく見ると右足のかかと部分に左足の爪先も描かれています。
これぞTHE キュビスムの体現だと思いましたね。
キュビスムの根本である「三次元の物体(立体)をどう二次元(平面)で余すことなく表現するか」をしっかり熟しています。
そして何より凄いのはこの絵を見ても何の違和感もなくこの絵を受け入れられることにあります。
普通こういった違和感のある絵、無理のある絵は最初すんなり目が受け付けないはずなのですが、それはまさしく写実画のように普通の絵として目に溶け込んでくるんですよね。
一種自然なものとして、新鋭キュビスムを受け入れさせるブラックの手腕がほんとに凄い。
そしてブラックからもう一作品。こちらも五分間目を奪われてしまいました。
一見誰でも描けそうな、素人が描いたような絵なのですが(アンリ・ルソーを馬鹿にしている訳ではない)、この絵もしっかりキュビスムの趣向が凝らされています。
遠近感を無視した高架橋、また家々と木々。
ブラックはこの絵で遠近法という元来の常識技法をぶっ壊す実験を行いました。
立体とその全てを、遠近法のように立体を成り立たせている条件を奪いながらますます平面に押し込もうとしている訳ですね。
おかげで家から木がぶっぱえてきているし、影なんて適当にごちゃごちゃ描いときゃいいだろみたいな感じに見えます。
しかし、その一つ一つの構成がしっかり考えられて描かれているのがこのキュビスムの奥深い世界なのです。
ということを色々考えながら、この絵を眺めていると「あれ?なんかどっかで同じような表現見たぞ?」という不和が浮かんできました。
そしてすぐさま歩みを戻して見に行ったのが最初のゾーンにあったポール・セザンヌです。
この絵をじっと見てください。
どうですか?何か違和感を感じましたか?
感じませんよね、知ってます。自分も一見した時は何も感じませんでした。
しかし、よくよく見てみるとこの絵は全体としてテーブルのやや上から俯瞰した構図、つまり立体を平面に収めた構図になっているんです。
テーブルとテーブルの脚を見てもらうと違和感に気づきやすいと思います。
右奥の脚とかに着目すると脚がぐにゃっとなっており遠近法がちょっとぶっ壊れてますよね。
俯瞰の構図なのにラム酒の瓶が真横から捉えられているのも、よくよく考えると違和感がアリアリなんです。
自分がぱっと見して素通りした理由もここにありました。
よーく考えないと違和感に気づけないんです。というか考えて違和感に気づけても、違和感らしき違和感を感じません。
そしてこの視覚の違和感を消している仕掛けは布にあります(と横の説明書きにあった)。
遠近法で描かなければいけない表現や立体の立体らしさの表現を、布を敷くことでわざと隠しているのです。
つまり、三次元の不備を布という二次元に覆い被せてしまっているんですね。
立体としての要素を平面に収めようとしている。
まさにキュビスムの理念「三次元の物体(立体)をどう二次元(平面)で余すことなく表現するか」を体現しています。
なるほど。だからセザンヌがキュビスムの元祖と言われているのかと、ここでようやく腑に落ちました。
ブラックの『レスタックの高架橋』にセザンヌの『ラム酒の瓶のある静物』と同じような感覚を抱いた理由はここにあります。
どちらも三次元の立体ままを忠実に二次元に落として描こうとしているんですよね。
しかし同時に「あれ?ピカソの『女性の胸像』にはセザンヌの神髄を感じられなかったぞ?」という疑問が湧いてきました。
キュビスムの始祖セザンヌの表現技法はその登竜門でもあるピカソにも少なからず影響を与えているはずなのです。
そこで『女性の胸像』以外のピカソの作品に目を通しに行きました。
おーい、お前セザンヌよりプリミティブに影響受けすぎやろ。
こちらはピカソの恋人の全身像なのですが山と一体化しちゃっています。
思考的にはもうまんまアニミズムの体現なんですよね。
キュビスムの「三次元の物体(立体)をどう二次元(平面)で余すことなく表現するか」といった理念を描いているというよりかは、もうアニミズムの方が強い。自然と魂の一体化を描いてしまっています。
つまり、ピカソはキュビスムはキュビスムでも唯心論的キュビスムを追求していると捉えることができます。
三次元の物体を二次元で表現しようとしているのではなく、私たちの精神的な部分を二次元においても表現しようとしている。それがピカソの目指したこの時代の画風なのではないでしょうか。
一方で、ジョルジュ・ブラックやポール・セザンヌの画風は唯物論的キュビスムと捉えることができます。
彼らは忠実に三次元の物体を二次元で表現しようとしているのです。
しかし、少なくとも私たちの思い描くピカソにもブラックやセザンヌのような、より唯物論的キュビスムに寄った絵を描いているイメージはあります。
じゃあどこでピカソは唯物論的キュビスムに迎合していったのかと目をやると……、
先のチャプターの説明に "ピカソとブラックが出会い、交流を深めると、1909年頃には新しい絵画表現を追求する「分析的キュビスム」を展開していった。" という文句を発見。
「分析的キュビスム」というのは、幾何学的な図柄と非遠近法的知覚を導入することにより三次元をより二次元的に押し込めていこうとする新たなキュビスムの実験です。
以下より絵を見てもらったほうがわかりやすいと思います。
えー、どっちも似通った絵を描いていますね......。
ここら辺の絵はどっちがブラックでどっちがピカソなのか、似通い過ぎて専門家でも画家名を見ないとわからないみたいです。
以前までは三次元を二次元に押し込むのが従来のキュビスムのやり口でしたが、分析的キュビスムでは二次元の押し込みを通り越して幾何学での押し込みを行っています。
三次元の立体をより構造から分解してさらに二次元というものすら分解して、絵を表現してやろうという気概を感じます。もはやもうこれが絵なのかすらわかりません。
色がついていないのもおそらく絵という概念すら分解、超越してやろうと思索を凝らしているんでしょうね。
そして、研鑽を重ねた結果、この分析的キュビスム期間を終えピカソは私たちの想像する形態に落ち着いてきます。
その一つとしてキュビスム展で見られるのが『輪を持つ少女』です。
やっとキュビスムキュビズムしてきましたね。
脳内にあるピカソのキュビスムってイメージこんな感じじゃないですか?
分析的キュビスムで三次元を幾何学まで分解した結果、描くものの表現がさらにキュビスムとしての巧緻を増し還元されたのが、このピカソのキュビスムなのです。
つまり、ピカソがブラックと交流を深めて分析的キュビスム期間に入るまでは、彼をキュビスム画家というよりプリミティブ画家と捉えた方が正しい。
むしろブラックの方がセザンヌの画風を正当的に引き継いでおり、彼をキュビスム画家として捉えるのが適当なんじゃないのかなというのが個人的な感想です。
ピカソはプリミティブの影響を色濃く受けてからキュビスムに染まっているのでセザンヌの要素はあまり感じず(セザンヌ期がないというのが正しいかも)、プリミティブを主体としたキュビスムが彼の方向性となっていそうです。
そうした見方をすると、よりピカソを理解して彼の絵を見ることができます。
また『輪を持つ少女』を描いたピカソの画風は、唯物論唯心論の両方を兼ね備えたキュビスムという認識もできます。
三次元(立体と精神)を二次元で表現しようとしたこれぞ私たちの脳内にあるキュビスムのイメージではないでしょうか。
まあ要するにキュビスムの変遷と進化って、考えれば考えるほど奥が深くおもしろいものなんです。
よく下手な絵を見て「ピカソみたいだね」と言うことがありますが、ピカソのキュビスムを理解していけばそのようなことが言えなくなってきます。
ピカソのキュビスムの凄さを例える時に「昔のピカソはめちゃくちゃ絵がうまかった」なんて説明もお門違いな訳です。
むしろそう思っていた人たちにこそ『キュビズム展』に赴いてキュビスムの世界を体感して欲しいです。
ただ個人的にはサロン・キュビスムの描いた絵はあまり見ていられませんでした。
ピカソやブラックを教科書として、その教科書の理論まんま使って絵を描いてるみたいな。なんの独自性も感じなかった。
ただキュビスムの興隆に大きくかかわったのは事実だしそこは評価される点だよなあと。
ちなみに、あまり言及されているのを目にしませんが(自分が疎いだけだと思うが)、キュビスムという表現が生まれたのはカメラが台頭してきたからだと思うんですよね。
カメラの台頭によって写実画の意義が大きく薄れてしまった。だからカメラが撮れない新しい表現を追求して生まれたのがキュビスムで、そこから華開いたのが抽象画という流れ。
当時マルクス主義が流行っていたのもあってその影響もあるでしょうね。ヘーゲル史観というか。
まあということで気になったら京都市京セラ美術館『キュビスム展』に是非足を運んでやってください。マジで恍惚な時間を過ごせました。
……忘れてました。
いざ村上隆もののけへ
『キュビスム展』を見終わり、お昼を済ましてから京セラ美術館に舞い戻りました。
知り合いからもらったチケットを握りしめ、斜に構えながら入場ゲートへ向かいます。
「うわ、人多い……」
入場ゲート以前から見える人だかり。めっちゃ並んでる。
もう一気に萎えてしまいましたね。
「これだから人口に膾炙するアーティストは……」と、ひねくれながら受付を済まし、列に並びます。
また人が多すぎて熱気がなんの、暑すぎてやってられん。
「この芸術被れどもがキュビスム展で頭冷やしてこいよ」
なんて冷めた目で大衆を見下しながら、大衆に揉まれて歩きます。
そして、目の前に幕があり、幕を抜けると村上ワールドの始まりです。
「さっさと見て帰ろ」
やる気のない手で幕をかきあげ中に入ると
目の前には
村上隆によって手が加えられた『洛中洛外図』がデカデカと。
「やっば、村上隆よすぎぃ……。」
この絵の中の節々に村上隆のオリジナルキャラクターが描かれています。
また金箔を張り巡らし色鮮やかな『洛中洛外図』は圧巻。
写真撮影可能なんですが、写真撮ってるやつらに構うもんかでこの絵に見入りました。
いや、まさか実力でわからせられると思ってなかったし、これが世界のアーティストかと、世界の偉大さを感じましたね。
一時的なアーティストとして持て囃されているだけかと思っていましたが、テーマがしっかりしており「かわいい」を芸術に昇華させています。
例えばこの『洛中洛外図』なんていうのは「渋い」の体現みたいな作品なんですが、それを改めてポップな色合いから上塗りし、世界観と不和なキャラクターをちりばめギャップを生み出すことで「かわいい」ものへPOPなものへと変貌させています。
「かわいい(kawaii)」という単語は実は今や世界的にも通じる単語で、それはつまり「かわいい」という感覚は世界が分かち合えるものなんですよね。
それをテーマとして芸術に昇華し展開する。しかもちゃんと芸術してる。開いた口が塞がりませんでしたわぁ……。
アニメ絵に寄った作品でもアニメアニメ感が無くしっかり一つの作品として鑑賞することが出来ました。
しかもそれを鑑賞して生まれる感情が「かわいい」なのがもう。村上隆の芸術作品の骨頂ですね。
そして帰りにはちゃっかりTシャツを買って帰りました……。
村上隆先生は本当にすごかったです。ひねくれた態度とってごめんなさい。
『キュビスム展』と一緒に『村上隆 もののけ 京都』も是非観覧して欲しいですね。こちらは9/1までやっています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?