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金木犀と昔日

 背丈2メートルと少し、緑葉が茂り、葉の合間には可愛らしげな花が見える。10月の初め、金木犀が香りをしんしんと降らせる時期が到来した。樹の傍を歩くときはもちろん、低層階ゆえに部屋の窓を開け放ってもその甘い香りが運ばれてくる。

 人はその香りに何を見出すだろう。忙殺される日々の一服の清涼剤だろうか。あるいは、秋の始まりとともに感じるどうしようもない物悲しさであろうか。それは千差万別のものであるし、その香りに見出す意味は完全に個人の自由に任されていると言わなければならない。よって、私も自身が金木犀の香りに抱くひとつの想いを開陳することも、また自由であろう。

 私は金木犀の香りに故郷を思い出す。なんの力も持たなかったが、それでも毎日が楽しくて仕方がなかった学童期。そして、自分は一人の足でも立てる、歩けるのだと心のどこかで信じて、行動した青年期。何もかもに満足した生活だったとは言い難い。涙を流すくらい辛いことも悔しいこともあった。しかし、私の故郷はそこにしかないのだ。

 特に私が好んだ金木犀の木は叔母の家にあるものだった。決して広いとは言えない庭の中で、その一本だけが主であるかのように立っていた。そして、季節の到来とともに金色の小さな花をつける。しかし、その花の小ささとは裏腹に香りは辺りに充溢するほど発せられ、私の鼻孔をくすぐっていた。

 私の故郷は金木犀の香りの中にある。より正確に言うならば、この香りの中にしか私は自らの故郷を見出せないのだ。

 それは故郷が持つ特殊性のためにそうなっている。故郷とは決して帰ることのできない土地である。かろうじて私たちが何かのきっかけにその土地を思い出す時に、立ちあがる蜃気楼のようなものだ。私たちは戻ることを根本的に許されておらず、その足を逆に向けることなど叶いはしないのだ。

 室生犀星の抒情小曲集に有名な次の詩がある。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや

 「帰るところにあるまじや」とあるが、私はこの節を思うに帰るところではないという決意を汲み取るととともに、もう一つの意図を感じずにはいられない。それは帰ることはできないという時間遡行の不可能性である。
私たちは生きている限り、現在から将来に向けて足を運ぶことしか許されていない。それは過去を思い出すことを妨げないが、過去に生きるということを否定するものである。もう少し正確に言えば、過去の変更可能性を封じ込め、過去は過去であるというトートロジーをもってして、私たちを現在に留めておく時間のもつ特性である。

 この意味において、郷里は思い出の中にしか存在しえないのである。

 故郷とはもう既に過ぎ去ってしまった限定的な時間の中に存在する土地である。つまり、今現在の故郷(厳密にはもう故郷ではない)と私たちが想起する「ふるさと」は別物ということだ。私たちが故郷に帰ると言う時には「ふるさと」に帰るのではなく、記憶の中にある故郷と同じ名前をもつ土地に帰るに過ぎない。それもまた町名変更や災害などといった残酷な時間経過の現象がなされていないという限定付きではあることは言わずもがなである。

 「ふるさと」とは過去の限定された時間の中に存在する土地である。このことに向き合った時に、「そうは言っても、現実に私が住んだ家はあるし、通った学校もある。物質的に変わらないものがあるというのに故郷に帰れないということはないのではないか」このように言う人がいることは確実であろう。その人たちに私はこう問いたい。「それは本当にあなたの経験したものと一致するのだろうか」

 確かに物質としての同質性はあるかもしれない。水が水であるように、生家も学校も存在するのだろう。しかし、その同質のものに加わった時間は、あなたのいない間に物質が経験した時間は、無視することはできない。半減期というものがいい例ではないか。あなたがいない間も物一般はその量が時間とともに減少している。この点において、前提とした物質の同質性でさえ崩れてしまう。

 私たちは「ふるさと」という時、郷里に帰れはすれど、「ふるさと」に帰ることは叶わないのである。もう帰れない土地を、戻れない経験を思い出すことはできても、遂には時間遡行の不可能性に直面し、現在を直視するほかないのだ。

 室生犀星の詩に戻ろう。この詩は郷里の金沢で読まれたものである。東京で読まれたものではない。しかし、はっきりと「ふるさとは遠きにありて思ふもの」とされているのである。その後に都という単語が詩文に組み込まれているので、当然、物理的距離感の意味はあるだろう。しかし、彼が郷里の金沢で感じたのは隔絶した故郷、時間的遠望の彼方にある「ふるさと」であったのではないだろうか。

 私は眼前に存在する、あるいは、その香りで自らを主張する金木犀の実体に、思い出の金木犀を想起する。私の「ふるさと」というのはこの想念の中にしかない。故郷にはもはや帰れないのだ。金木犀の香りが私にもたらすのは望郷であって、過去に帰ることではない。当然、帰ることなどできはしないのだから。

 現在と過去を結び付けるのはただ甘く香しい金木犀の香りなのだ。それすらも同質のものではないと知りながらも、思い出さずにはいられない。金木犀の香りにつられて私は立ち上る「ふるさと」を幻視する。もはや同じ時を過ごすことなど不可能だと知りながらも、いや、知っているからこそ幻の故郷というのは金木犀の花のように黄金色をしているのかもしれない。しかし、もう戻れないのだ。

 末枯れた秋の始まりに、金木犀の甘い香りに酔いながら、私は悲しくも帰れない故郷を思うのだ。


※私がとある会社の試験で提出した文章の転用です。

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