2本目の脇道
皆さんこんばんは。
脇道です。前回、1本目の脇道を見つけてくださった方々ありがとうございます。
今回初めて見つけてくださった方も、この間紹介した1本目の脇道を是非、ご覧ください。
今日も夕方くらいに紹介しようと思っていたのですが、学会発表の要旨提出が近くバタバタとしていて目が回ってしまいそうになっていました。
どのくらい忙しいかというと、彼女との出かける予定をキャンセルしなければいけないくらいです。余程です。
そうこうしているうちに日付が回ってしまいましたが、私が起きているうちは「今日」が続いていると考えているので、セーフということにしましょう。(笑)
そんなこんなですが、自分の息抜きがてら、2本目の脇道を紹介していきたいと思います。
さて、紹介する2本目の脇道ですが、今回は「人が生きる意味や価値」という内容です。
皆さんもこの世に産まれ落ちてから現在に至るまでで、少なくとも1回くらいは考えた事があるのではないでしょうか?「何のために自分は生きているのだろう」、「自分が生きている価値って何だろう」。
自己紹介でも述べた通り私は日頃からいろんなことをぼんやりと考えているので、勿論、考えた事は沢山あります。
しかし、大学1年生くらいまでは半ば勢いで生きていたようなものなので、そういった哲学的な事はあまり考えていませんでした。考えたって何も分かりやしないし、考えるだけ無駄、と。
しかしきっかけは何処からともなくやってくるものです。2020年某日、私が元彼女と喧嘩をした際、「生きてる意味って考えたことある?あなた何も考えていなさそうだけれども。」と問うてきました。
その時私は、何言ってんだこいつ。生きてる意味を日常的に考える奴なんてそう居ないだろ、と思っていました。
しかし、その言葉が本当は自分にとってショックだったのか、元彼女が怨念を込めて言っていたのかは定かではありませんが、その言葉は私の胸の奥深くに突き刺さり、抜ける事はありませんでした。
その喧嘩から4年あまり経過した、2024年7月某日、大学の顕微鏡で微生物を見ながら、研究サイトの一つである水田で動き回る微小甲殻類を見ながら、旅行先の水族館で漂流するクラゲを見ながら、何故か「私が今生きてる意味」についてぼんやり考えていました。
別に自分の存在意義について知りたかったわけでも、何かがそうさせるほど思い悩んでいたわけでもありません。ただ、あの日言われた言葉を不意に思い出し、脳がなく有機物を分解して生命を繋いでいる彼らが、どうして今日まで生き残って来たのか気になってしまった、それだけの事でした。
私は考え始めたらとことん考えるタチであり、いつのまにか日常生活を送りながら「生きる意味」について考えるようになりました。
「彼ら(微生物やクラゲ達)と僕の決定的な違いは何か」を考えた時、生物学的分類(人間、犬、猫、魚、などなど)を除くと生態系的立ち位置なのでは無いか?と感じました。
彼らは生態系の中では「生産者(栄養素を産み出すもの)」や「消費者(低次)(地位が低い、他の生き物が産み出した栄養を食べるもの)」と呼ばれる立ち位置にいます。生物の枯死体を分解したり、プランクトンや微生物、虫を捕食する事でエネルギーを作り出して命を繋いでいる者たちです。そして彼らは、いずれどこかの誰かに捕食され、やがて捕食した者の命に変わります。
一方私たちは「消費者(高次)(地位が高く、他の生産者や消費者が生み出した栄養を食べる者)」と呼ばれる立ち位置にいます。高次といえど、生態系ピラミッドで見れば頂点に値する位置です。どこかの誰かに捕食されることもありません。ライオンやトラなどの肉食動物も生態系の頂点にいる者たちですが、では、私たちと彼らのような肉食動物の違いはなんでしょうか。
おそらく僕と彼らの違いは、野生の中で死ぬか否か、です。
彼らのように野生の中で死ねば、微生物や他の消費者によって分解され、他の生命の灯の油となります。
しかし私たちは死んでも火葬されて壺に入れられておしまい。誰にも分解されることはないし、誰の生命の灯の油にもなりません。
人間が生物として今日まで残って来た理由があるとすれば、「先祖が頑張った。」おそらく、ただそれだけのことでしょう。運が良く生き抜く方法を見つけ、学び、それを子孫に聖火のごとく継ないできた。ただ、それだけ。
じゃあ、他の生命や自然界の循環サイクルから隔絶された私たちが、この世に生まれて来た意味ってなんでしょう?人が生まれてくる意味ってなんなんでしょうか?
おそらく、その答えは「無」であると私は思います。
「この世に産まれ落ちた」という事実がそこに転がっているだけで、そこに大意は無い。
勿論母親が死ぬ思いをして産んでくれたのだから、天命が尽きるまで生き抜く事は当然大切な事であります。
でも、それ以上でもそれ以下でもありません。
つまり、産まれ落ちた時点で「生きてる意味」なんてものは無いのです。自分自身でどれだけ唸って考えても、逆立ちをしても、「生きている意味」なんてものは出てきません。
でも、人が「生きている意味」はこの世に存在する、とも私は思います。
お前さっきは無いって言ってたじゃん、と思ったかもしれません。確かに、私はさっき「無」と言いました。でもそれは「自己視点」での答えであって、何も答えは一つなんて言ってはいません(ずるい人ですね)。
私たちはこの世に産まれ落ちて、夫婦ないし彼氏彼女を親へと進化させました。歩き方を覚え、言葉を覚えて両親に喜びを与えました。時には悪さをして怒られ、大人になるために必要な事を学びました。親戚やご近所さん、友達、先生と挨拶をし、時間を共有し、社会において人間関係を構築しました。恋人や婚約者ができ、特別な関係を結ぶ事だってあるでしょう。犬や猫などの生き物を可愛がり懐かれる事だってあります。
私たちが産まれ落ちてから「死」に向かって歩みを進める中で、たくさんの人や生き物と関わり合いを持ち、挨拶を交わし、時間を共有し、喜怒哀楽を分かち合う。
其処から生まれる、幾千万もの「ありがとう」「ごめん」「大好き」「大嫌い」「わん」「ニャー」「愛してる」。
「私たちが今生きている意味」があるのなら、きっと、そこにある。
「生きてる意味」なんてものは他者依存的なものだから、自分の中を探し回ったって、自分で考えて見つけ出そうとしたって、見つからないし出てきません。1人で自分が鬼の隠れん坊をしているようなものです。
ここで世界と断絶している人間にはじゃあ生きている意味は見出せないってのか⁇という疑問が生じるかもしれませんが、はなから意味なんてものは存在しないのですから、見出すもクソもありません。
芸人が人を笑わせて、オリンピアンや役者が人に感動を与えて、頭が良い人たちが政治・経済を回して。「人と関わって人に与えた感情」≒「意味や価値」であっても、=では無いしそうはならないと、私は思います。
つまり私が個人的に導き出した「生きている意味や価値」の答えは、もともと誰も持っていないけれども、生きていく中で自分ではない生き物とのすれ違いによって生まれる、ということです。
あくまでも私一個人の意見ですから、他にも答えは沢山あると思います。
まあ、だからあの日元彼女に問いかけられたことの回答は
「そんなもんない」
でしょう。(笑)
一時期自分の親が子供が全員大人になってしまって世話を焼く者がいなくなり、心の拠り所である猫も高齢で先が見えない状況下にあるとわかってしまった時、「もう生きている意味がないかもしれない」と言っていた事があります。
その時にこの話をしてあげたら、腑に落ちたようでまた元気になってくれました。
だからもし、今、自分の存在価値や生きている意味がわからなくなっている人がいたら。
そして、その人が偶然にもこの脇道に迷い込んだのなら。
君たちが自分で自分に価値が無い、生きている意味がない、と思っていても、それはあなたの感想です。君たちが思っている・感じている以上に君達の存在価値や意味を、家族や友達や隣の住民やペットの太郎やゴンザレスやゴキブリやダニやカビは感じて、知っています。
だから、今は生きている意味なんて考えるのをやめて。生きて。
気が向いたら家族や友達や隣の住民やペットの太郎やゴンザレスに話しかけてみてください。
それも、直接。その時、相手の表情を見る事。
ちょっとだけ眉毛が下がったり口角が上がったり、目尻に皺ができてますから。雰囲気の角が、90°以下から91°以上になってますから。
そんな奴ら居ない‼︎って人は、家の中や道端に自分の髪の毛やすね毛や目糞耳糞鼻糞を落としてみてください。夜な夜なゴキブリや蟻やなんかしらの微生物が餌だご馳走だと言って食べてますから。微生物学者がいうんですから微生物に関しては間違いないと思いますよ。
ほら、そこに意味や価値が生まれたんじゃないでしょうか?(価値の大きい小さいは気にしない)
少し長い話になってしまいましたが、2本目の脇道、いかがでしたでしょうか。
皆さんも是非、自分なりの生きる意味や価値への答えを導き出して、いつか私に教えてくださいね。
読んでいただきありがとうございました。
それではまた何処かの脇道でお会いしましょう。