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神様を信じることにした

 わたしの破滅寸前のどうしようもない人生に突然やってきた神様。
わたしの中にあった、この世への疑問を解消しながら神様はわたしを導かれた。本当に不思議。

 欲望にまみれ、奪い合い、騙し合うような[スピリチュアル]の世界に気がつかず、清いものとしてどっぷり浸かっていたこともあります。どこからかやってきた「浄化」のしてあるキラキラした高額な石を身につけていたこともあります。魔法のように、奇跡のように、わたしの内面も全て癒してくれたらいいと本気で願っていましたが、そこはタヌキと狐の化かし合いのような、全然清くもなく強いものが弱いものを食い散らかすような弱肉強食の商売の舞台でした。 

 それに気がついてさーーーっとスピリチュアル界隈のものを全てを捨て去り、交流もさーっと捨て去りました。幸か不幸かわたしに「視える」才能がなかったので、誰かを騙す側に回ることはなかったのですが、片棒は担いでしまったのは事実。(もてはやし、SNSで盛んに口にしていたので)なんともお恥ずかしいことです。あまりに夢中になりすぎていたため、その事実を受け取った時、熱を出してしまったほどでした。 

 そしてスピリチュアルから足を洗ったわたしが向かった先は、お金を稼ぐこと。でした。水商売でその時は頑張ってましたが長くは続かず、ヘロヘロになりながらも、どうしても人に認められたくて、その時のわたしは四六時中、男心を操る方法ばかり考えていました。しかし疲れ果てていた、わたしに、神様がノックしました。突然Youtubeにキリスト教関連の動画がオススメされてきたのです。そういうのはもういいよ、奇跡とか嘘だって充分わかってるし、とスルーして、神様は次に「この世の真実」的な動画をオススメしてきました。

 この世の真実的な動画は今はたくさんありますが、わたしのところに出てきた動画は聖書に基づいた「この世の真実」のお話でした。多くの「この世の真実」的な動画はキリスト教だって欺瞞に満ちたもので多神教こそが本当。のように表しているものもたくさんあるのですがわたしにはそれは与えられず、逆に、キリスト教が真実なことがこの世の出来事から読み取れる、くらいの動画が与えられたのでした。

 この世がどうしてこんなに息苦しくて、多くの人が辛いのか、「文化」とは何なのか。そんなふうに思っていたわたしは、疑いを半分持ちながら、神様に近づいていくことになりました。そこにはわたし自身が気が付き、離れた「スピリチュアル」や「占い」のことも多くテーマとして扱われていて、今となってはその世界から離れることさえも、神様の計らいだったのだと思うのですが。

 その頃のわたしは生きることに疲れて、孤独で、自分を嫌っていて、本当にどうしようもない人生に不安と迷いと恐れを抱いていました。半信半疑で、動画を見ていくうちに、本当に?と好奇心が湧いてきて動画の中の祈りの言葉を口にしてみたのです。わたしはそこで圧倒されてしまいました。神様の存在に、涙が止まらなくなったのです。胡散臭いでしょうけれども、何かが心を満たしてくれたのを感じました。

 盗むし、姦淫は犯すし、嘘もつくし、隣人を愛したりしません。むしろ憎んでいる。お金のために嘘ばっかりついて、自分を殺したいほど憎んで、欲に満ち、傲慢でプライドばかり高く、外側ばかり装っているような人間です。本当に生きている価値などないような、社会の隅っこでへばりついているような愚かなわたしに、神様が手を差し伸べてくださった。と感じました。

 と言っても半信半疑のままでした。日々、神様へ近づいていることは感じるものの確かなものはなかったから。ただ、無料ですし、祈ること、だけは続けてみたのです。するとたびたび、神様が突然わたしの心を満たしてくださって、涙が止まらなくなる。わたしは水商売を辞める決意をしていました。なんとなく、続けていてはいけない気がして。本心から喜びでしている仕事ではなかったですし、心が苦しかった。水商売をやめ、その一月後には洗礼を受けていました。

 わたしは弱いです。この世で自立して上手く生きていける心の支えを幼い頃に得ることができませんでした。自分を受け入れることもできなかった。本当に生きることに戸惑いと、迷いと不安があって、人と関わりを持つこともできずにいましたから、それは本当に「救い」でした。自分の力でどうにかできていたなら、手を伸ばしたりしなかったでしょう。

 そんなわけで、自分の苦しさから逃れるために、わたしは神様を信じることにしました。が、反面「いよいよ来るとこまできたな」とも感じていました。

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