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巫女物語3-1 「月詠の調べ、結びの糸」第1章


第1章 木漏れ日の出会い

静寂が支配する早朝の空気は、深い緑に囲まれた月詠神宮(つくよみじんぐう)の境内に満ち満ちていた。

古木の梢を縫うように差し込む木漏れ日が、苔むした石畳をまだらに照らし出し、幻想的な光景を作り出している。

清らかな空気に包まれた境内を、一人の若い女性が静かに歩いていた。

彼女の名は水縹(みはな)。月詠神宮に仕える巫女である。艶やかな黒髪を背中まで長く伸ばし、涼やかな目元は知性と優しさを湛えている。

普段は知的な印象を与える眼鏡をかけているが、早朝の清掃中は外しており、その素顔はどこか神秘的な雰囲気が漂っていた。

白い巫女装束に身を包み、手には丁寧に編まれた箒を持っていた。一枚一枚の落ち葉を大切に掃き集める姿は、まるで神聖な儀式のようだった。

「ふう…今日も一日、皆さまに良きご縁が結ばれますように」

水縹は小さくつぶやき、箒を持つ手に力を込めた。

彼女にとって、この神宮は単なる職場ではなく、幼い頃から慣れ親しんだ故郷であり、人々の心の拠り所であり、何よりも大切な場所だった。

神聖な空気を肌で感じ、木々のささやきに耳を傾けることで、彼女は日々の活力を得ていた。


その時、境内の入り口にそびえ立つ、樹齢千年を超えると言われる大楠の木の下に、一人の男性が立っているのを見つけた。彼はスケッチブックを手に、熱心に何かを描いているようだ。

水縹は少し警戒しながらも、参拝者だろうと判断し、近づいて声をかけることにした。

「おはようございます。このような早朝に、いかがされましたか?」

水縹の澄んだ声に、男性は驚いたように顔を上げた。整った顔立ちで、どこか物憂げな表情を浮かべている。薄い唇は僅かに緊張の色を帯びていた。

「あ、おはようございます。申し訳ありません、こんな時間に。私は…織部蒼真(おりべ そうま)と申します。少し、この神宮の風景に心惹かれまして…」

蒼真は少し照れくさそうに、手に持っていたスケッチブックを水縹に見せた。

そこには、大楠の木と、その後ろに静かにたたずむ社殿が、繊細なタッチで描かれていた。木々の葉の一枚一枚、石畳の質感まで丁寧に描写されており、彼の卓越した画力が窺えた。

「まあ…!素敵ですね…!まるで写真のようです。いえ、写真以上に、この神宮の持つ特別な空気まで描かれているように感じます」

水縹は思わず感嘆の声を上げた。絵には、単なる風景描写を超えた、神宮の持つ静謐な空気や、悠久の時の流れまでが表現されているように感じた。

「ありがとうございます。…実は、最近少し体調を崩しておりまして。都会の喧騒から離れ、静かな場所で過ごしたいと思っていたのです。この神宮の静けさに、心が安らぐのを感じ、つい…」

蒼真はそう言うと、少し寂しそうで、どこか諦めたような表情を浮かべた。水縹は彼の言葉に、深い同情の念を抱いた。

「それはお辛いですね…。どうぞ、お気になさらず、ゆっくりとお過ごしください。もしよろしければ、境内の奥にある休憩所で茶でもいかがですか?温かい茶を召し上がれば、少しは楽になるかもしれません」

水縹の心からの申し出に、蒼真は少し驚いた様子だったが、すぐに表情を和らげ、

「…それは、ありがたいです。お言葉に甘えさせていただきます」

と、控えめに答えた。

水縹はにっこりと微笑み、彼を休憩所へと案内した。


休憩所は、木造の簡素な建物だが、丁寧に掃除されており、清潔感に溢れていた。

窓からは境内の緑が一望でき、静かで落ち着いた空間だった。水縹は手際よく茶を淹れ、湯呑みを蒼真に差し出しながら、

「どうぞ、熱いですからお気を付けて。翡翠村で採れた上質な茶葉を使っているんですよ。香りも良いでしょう?」

と声をかけた。

蒼真は両手で湯呑みを受け取り、立ち上る湯気と茶葉の香りを深く吸い込むと、

「…ああ、本当に良い香りですね。ありがとうございます」

と、心底安堵したような表情を見せた。一口飲むと、目を閉じ、ゆっくりと味わっている。

「…美味しい…心が落ち着きます」

「それは良かったです。お気になさらず。…この神宮には、古くから癒しの力があると伝えられているんです。この静けさと、木々の生命力、そして何よりも神様の御力が、きっと、蒼真さんの心と体も、少しずつ癒してくれると信じております」

水縹はそう言うと、蒼真の向かいに腰を下ろした。


柔らかな日差しが差し込む中で、二人の間に穏やかな時間が流れ始めた。

「…水縹さんは、この神宮の巫女さんなのですね?」

蒼真が静かに尋ねると、水縹は優しく微笑み、

「はい。私はここで生まれ育ち、この神宮を守るのが私の役目なんです。幼い頃から、この神宮と共に生きてきたと言っても過言ではありません。木々の声、風の音、鳥のさえずり…全てが私の一部なんです」

と答えた。

その言葉には、神宮への深い愛情と誇りが込められていた。

そこから二人の会話が始まった。


蒼真は自分のこと、絵を描くこと、そして体調を崩してからの苦悩を、少しずつ水縹に打ち明けた。

水縹は、優しくうなずきながら、蒼真の言葉に真摯に耳を傾けた。

時折、蒼真の手にそっと触れたり、温かい眼差しを送ったりしながら、彼の心を和らげようと努めた。

その自然な気遣いが、蒼真の心を温かく包み込んでいく。会話の中で、水縹は蒼真の手が少し冷たいことに気づき、心配そうに尋ねた。

「…手が、少し冷たいですね。寒くはありませんか?」

蒼真は少し戸惑いながらも、

「…少し…冷えますね」

と正直に答えた。

すると水縹は、迷うことなく、自分の両手で蒼真の両手をそっと包み込んだ。

「…温かくしてくださいね。今日は少し冷えますから」

水縹の温かい手に包まれ、蒼真は一瞬戸惑った表情を見せたが、すぐに柔らかな、どこか安堵したような笑みを浮かべた。その温もりは、彼の凍てついていた心をゆっくりと溶かしていくようだった。

「…ありがとうございます。なんだか、本当に心が温まります。体だけでなく、心まで温かくなるような…不思議な感覚です」

蒼真は、水縹の目を見つめながら、そう言った。水縹は、照れくさそうに微笑み、手を離した。しかし、二人の間には、それまでとは違う、特別な空気が流れ始めていた。

木漏れ日が、二人の横顔を優しく照らしていた。

(続く)


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前田拓
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