開かずの踏切
靄ヶ丘駅近くの踏切は、めったに開かない。というよりも、開いているところを見たことがなかった。
「ここの遮断機、本当に上がるのかな」駅へ向かう途中、並んで歩く中谷美枝子に言う。
「開くんじゃない? だって、踏切でしょ」中谷は答えた。
踏切の先は緩やかな坂道となっていて、高台に建ち並ぶアパートが見える。靄ヶ丘マンモス団地だ。
「あそこに住んでいる人って、こっち側まで来たことないんだろうね」とわたし。踏切がまるで、関所のように思えた。
「あたし達が、滅多に向こうへ行かないのと同じようにね」中谷は団地を見上げる。
駅のホームは、改札の内側でこちらと向こうとに分岐していた。連絡通路などはない。どうしてもあちらへ行きたいときは、入場券を買って、構内を突っ切る必要があった。
そうした構造が、ますます双方を分け隔てているのだった。
「聞いた話だとね、団地の中央広場には円形劇場があるんだって」中谷が教えてくれる。
「へー、なんか、かっこいいじゃん」
「でもって、しょっちゅう、何かしらイベントやってるらしいよ」
「それって、コンサートとか演劇とかでしょ? いいなぁっ」入場料など払わずとも、ひょいっと窓から顔を出すだけで見物ができるのだ。
「ねーっ、うらやましいよね。あたし、ライブって人がごった返してて苦手だけど、自分ちのベランダから見下ろせるんだったら、毎日だって見ちゃうな。いっそ、団地に住んでしまいたいくらい」
「公団かな、それとも公営?」
「うーん、遠目に見てもけっこう立派な建物だと思わない? きっと公団だよ」中谷の見立てだった。
「じゃあ、家賃とか高そうだなぁ」
「高いよね、たぶん。15万くらい? 独り暮らししたいけど、無理だ。給料だけじゃ、追いつかない」
1月も三が日が終わる頃、町内を甘い香りが漂い始める。
「この匂いはお汁粉だね。ね、中谷。今日はファスト・フードなんかやめて、甘味店にしない?」この日も、わたしは中谷と駅前へ来ていた。例の踏切は、相変わらず閉まったままで、カンカンと音を鳴らし続けている。
「うん、いいね。お汁粉の匂いさあ、うちのほうまで風で流れてくるんだ。実を言うと、夢の中にまで出てきちゃったくらい」
わたし達は、喫茶店ふうのおしゃれな店に入った。コーヒーや紅茶なども出すけれど、もともとは古くから続いている甘味店だ。何年か前に装いを替え、現代風のレイアウトになった。
「おばちゃん、お汁粉2つねっ」中谷が元気よく、声をかける。
「はいよ。寒い日にはぜんざいだよね、やっぱ」店の雰囲気は変わっても、昔ながらのかっぽう着姿だ。なんだか、小学校の頃に戻った気がしてしまう。
「先生は寄り道なんかしちゃいけません、って言ってたけど、知らん顔して来てたよね」わたしは子ども時代を振り返る。
「知らん顔っていうかさぁ、ここのおばちゃん、あたしらのほんとのおばちゃんみたいなもんだから。ほら、近所に住む親類みたいな。寄り道ってつもりじゃなかったんだよ」
ほどなく、お盆に載せられたお汁粉が運ばれてきた。
「あんたら、そろそろ結婚のこととか、ちゃんと考えてるかい?」それぞれの前に、湯気の立つお汁粉の椀を置きながら、おばさんが話しかけてくる。
中谷とわたしは互いに顔を見合わせ、やれやれ、という顔をしてみせた。
「おばちゃん、そんなのまだ早いって。いまはまだ、面白おかしく過ごしたいんだもん」中谷は言う。
「そんなこと言うけどね、人生なんざ、過ぎちまえばあっという間だなんだよ。いいかい、なんでも早いほうがいいってなもんさ。このおばちゃんなんか、あんたらくらいの頃には、もう子どもが2人もいて、せっせと世話を焼いてたんだから」
お汁粉がほどよく冷めてきた頃、おばさんはやっと引っ込んでいく。
「ほんと、よそへ食べに来たって気がしない」中谷はこそっと口にした。
「心配してくれてるんだよ、ありがたいと思わなきゃ」わたしは箸を取る。
ほのかに塩味のするお汁粉は、昔から変わらない。暗い赤紫の中でぷかぷかと浮かぶ白玉は、その焦げ目までも当時のままの気がした。
次の週の昼頃、床の間に飾ってあった鏡餅を降ろしていると、「キミに99パーセント」のメロディが聞こえてきた。わたしのスマホの着信音だ。
「誰だろう」部屋にとって返し、ベッドの上でブルブルと震えるスマホを取る。中谷からだった。「もしもし?」
「あ、むぅにぃ、やっと出てくれた」妙に声が弾んでいる。
「どうかした?」
「うん、例のほら、『開かずの踏切』。あれね、あれが」だいぶ興奮しているらしく、言葉がまとまらない。それでも、わたしはピンと来た。
「開いたんだ!」
「そ、そうなのっ。そして、まだ開きっぱなしなのよ。すぐ来てっ。いますぐっ!」
わたしは大急ぎで着替えると、自転車に乗って靄ヶ丘駅へと向かう。
駅の駐輪場に自転車を停めると、踏切まで走った。人が大勢、列をなし、次々と遮断機の下をくぐっていく。
中谷はその傍らに立って、わたしを待っていた。
「むぅにぃっ!」
「本当に開いたんだ……」わたしは呆然として眺める。
「早く、後に並ぼう。団地の円形劇場で、鏡開きをするんだって。超特大の鏡餅を割るんだよ」中谷が叫ぶ。
「超特大って、どんだけ大きいのさ」最後列を陣取って、わたしは聞いた。
「家1件よりも、まだ大きいらしいよ。円形劇場をお椀にして、そこでお汁粉も流すの。ねっ、すごいでしょ」
「あ、それでここんとこ、小豆を煮る匂いがしてたんだ」
辺りは、顔までべったりとしてきそうなほど、甘い香りでいっぱいだった。