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刀鍛冶左行秀の拳銃

 片岡銀作『左行秀と固山宗次その一類』より。
 新々刀期の名匠として名高い左行秀は鉄砲鍛冶でもあった。安生3年(1856年)5月12日、鉄砲鍛冶及び刀鍛冶として、土佐藩山内家に抱えられている。そこで行秀は50人以上もの職人を使っていたという。(上掲書P.13)
 行秀の刀の作風は地鉄と沸の美しさに特徴があるが、刃紋は画一的な直刃が多い。刀も実際には配下の職人が作っていたのかもしれない。

 日本における鉄砲作りの技術は天文12年からあり、行秀は上掲図のような短筒型の拳銃も作っていた。しかしリボルバー式拳銃はペリーが来るまで存在しなかった。ペリー来航後、行秀はリボルバー式拳銃も作った。下の写真では判りづらいが、表面は鎚目地のようにも見え、時代の上がる刀匠鍔のような味わいがある。


 その後、行秀は江戸へ出立。彼の全盛期とされる慶應年間に多くの名刀を作った。


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