時間への問い1 蘇るニュートン
時間とは何かを考えることは時間の無駄かもしれない。しかしこれほどエキサイティングな時間もない。
蘇るニュートン
世の中には様々な時間がある。
幾何学では二次元化された抽象的な量。古典力学では物理的な量。
熱力学ではエントロピーの増大。
相対性理論では時間と空間を一体として捉えた時空の曲率。
量子力学ではプランク定数を最小単位とした波動関数。
それらはいずれも時間を計測可能な量として捉えている。
ニュートンの絶対時間は相対性理論によって否定されたとされているが、相対性理論では重力が空間に曲率を与え、それが時間を規定しているとされる。ならば重力が空間に作用し続けている間の時間は、何に規定されているのか?
時間が空間の曲率に規定されるなら、空間を変化させている重力は時間とは別の物という事になる。映画『インターステラー』ではそのような解釈を採っている。映画では5次元の概念が持ち出され、その矛盾に応えているが、要するに重力には相対性理論とは別の時間が作用しており、それが重力の動力因となって空間を歪曲させていると解釈できよう。
ならばこれこそがニュートンの絶対時間ではないのか?
ニュートンの絶対時間とは、あらゆる物理現象から独立して存在し、しかもあらゆる物理現象を計測する普遍的な尺度だ。実際には絶対時間が重力を作り出しているからこそ、宇宙は万有引力の法則で現象しており、それゆえ時間で計る事が可能となっているのだろう。
幾何学的な時間論、熱力学的な時間論、量子力学的な時間論でも同じ事である。時間を物質の変化・運動として捉える限り、それらの物質の動力因が問われるからである。それに応えられる概念はニュートンの絶対時間しかない。
相対性理論によって否定されたはずの絶対時間は現代物理学の5次元で一段とパワーアップして蘇ったのである。
アリストテレスの定義
そもそも時間を量として定義した最初の人物はアリストテレスだった。彼の定義では「時間とは変化と変化の間の量」「時間とは前後に関する運動の数」「時間は連続的で不可逆である」とされる。それが現代科学の時間概念の基礎となっている。量子力学における観測者効果も、アリストテレスは「運動とは可能態から現実態への変化である」という確率論的な発想で先取りしていた。現代科学の時間論はアリストテレスの時間論を発展させたものに過ぎない。
時間とは変化なのか?
ではアリストテレスは時間を変化・運動として捉えていたのだろうか?
時間とは事物の変化・運動なのか、時間があるから事物は変化・運動するのか? そもそも時間は存在するのか?
事物の変化・運動が時間なら、時間は事物の付帯現象に過ぎず、時間そのものは存在しない事になる。一方、時間があるから事物が変化・運動するならば、変化・運動の動力因としての時間とは何かという新たな疑問が生じる。
ニュートンの絶対時間はアリストテレスへの回答だった。
相対性理論で相対時間が現象可能なのも、事物の変化・運動を絶対的に規定する絶対時間があるからと考えられる。
エンゲルスの言葉
かかる絶対時間を端的に言い表しているのがエンゲルスの言葉である。
エンゲルスは「時間とは、変化とは別のものだからこそ、変化によって計る事ができるのである」と言い、「だから認識できるような変化が全く起らない時間は時間でないどころではなく、これこそが時間そのものなのである」と言っている(『反デューリング論』国民文庫 P.78)。
エンゲルスの言葉はデューリングを揶揄するためのナンセンスなレトリックだが、時間の実相を考える上では極めて重要な考え方である。
エンゲルスもニュートンもかかる時間が事物の変化・運動にどう関係しているのかまでは考えていないが、本論ではそこから先を考えてみよう。
今とここに始まるヘーゲルの世界
今とは何か? ヘーゲルはそれを意識であると考えた。そして『精神現象学』では、意識は「今」と「ここ」という感覚的確信から始まると定義した。つまり「今」と「ここ」は通常考えられているような客観的な時間と空間における位置関係ではなく、主観的な意識の始まりなのである。
かかる「今」と「ここ」は自然的意識であり、彼の哲学体系では即自的意識とされる。即自的意識は自己内反照し、対自的意識に転化する。自己内反照とは鏡に映った自分の顔を見た時のように意識が二重化し、自分が自分の対象として意識された状態である。それによって自然的意識は否定され、感覚的確信は客観的世界の認識となり、その者が存在する世界を反映したものとなる。
世界を反映したと言っても、自己意識は客観的世界に対して受動的に存在しているのではない。自己意識は能動的に他者を規定し、自ら世界を創り出しているのだ。他者とは個別的な他人だけでなく、自己以外の全ての対象である。つまり世界とは「今」と「ここ」から始まる現象に他ならない。
ヘーゲルにおいて、この世界現象過程は「推理」と呼ばれており、{特殊性‐個別性‐普遍性}と表記される。「今」と「ここ」に埋没している自然的意識が特殊性、自然的意識を否定して現象する自己意識が個別性、他者関係に目覚めた意識が普遍性である。
無の時間
従ってヘーゲルの世界においては、時間と空間は数学的な形式ではない。彼は「時間の内にあらゆる存在が生じては消えて行くのではなく、時間そのものが存在のエネルギーである」(『エンチュクロペディ』258節)と言い、意識に立脚する時間そのものを動力学的に捉えている。この「存在」とは自己意識によって規定される現象的世界の事である。そしてそのエネルギーの目的は精神を創り出す事であるとしている。世人はそれを絶対精神の自己発展と呼ぶが、先の「推理」に即して考えれば、時間というエネルギーは特殊性、個別性、普遍性の相互関係によって、現在、過去、未来として現象していると言えるのである。
更にヘーゲルは、時間的な過去と未来こそが空間の概念であるとも言い、エネルギーとしての時間が客観的な空間に及ぼす作用に言及している(同259節)。
「今」と「ここ」はそこから全てが始まる起点であり、何ものにも干渉されていない純粋な状態である。一方、今とここはそれだけでは何ものとも関係を持っていないので、「無」である。
ヘーゲルの今とここの考え方は5次元に蘇ったニュートンの絶対時間と一致する。そして「今」と「ここ」はエンゲルスの「認識できるような変化が全く起らない時間は時間でないどころではなく、これこそが時間そのものなのである(『反デューリング論』国民文庫 P.78)」との定義に当て嵌まる。その意味で時間そのものである「今」と「ここ」は無と言える。
続く