愛や好きから裸足で逃げる
愛は結局のところ規範だ。もう疲れた。本当に疲れた。
何かを好きでいることにすら疲れた。そんなことにすら、なぜ自分は疲れてしまうんだろう? と思いながらも、もう答えは出てしまっている。
もちろん、規範「だから」人が愛を営んでいるわけでもないこと、重々承知です。
おそらくは自然な感情として、「人として当たり前の」感情として、ひろく共有され共感を呼ぶ愛や好きといった感情は、だからこそ否応なしに規範性を帯びるのだと自分が考えているだけのことです。
推し文化、家族愛、友愛、恋愛や性愛。
何かを好きでいる・愛することが(正しいこととして)当然のように称揚されている世の中で、自らがやっていたのはそれらの真似事なのだと認めざるを得なくなった。
自分の好きや愛が言うほど自発的な感情でもなかったこと、多くの人々のそうした様子を補助輪に、後を追うように好きの形を模索していただけだったこと、それらが疲れてしまったことの答えです。
自分にも見てくれの良い愛のひとつくらいはあるだろう、という希望とプライドがいよいよ潰えてしまった。
それが生きるよすがのつもりだったけれど、どうやらダメになってしまったので本当に途方に暮れています。
これはそういう、何のオチも展望もない書き散らしです。
推し文化やファンフィクのフィールドに対して居心地が悪かったのは、「対象に向けてのちゃんとした愛や好きがあるかどうか」を測られている気分になるからで、誰も測っていないのも重々承知だったけれども、「愛や好きは発露してこそ」という不文律がしんどかった。
もちろん愛や好きには行き場が必要なので、発露それ自体が悪いわけもなく、ただどこまでも自分に合わなかった、それだけの話です。
唐突な自己紹介をしますと、対人・非対人あわせてaro/aceです(ついでにSAMです。個人的な理由により自分はそこを分けます)。
それでもきっと、優しい人々は「推しとかそういう形で好きな人はいるんでしょう?」と思うのかもしれない。
実際に好きなバンドもいることにはいるし、ゲームやアニメのファンフィクションを綴ったりしたこともあるし、ソシャゲにも好きなやつはいました。過去形でもないですが。
(自分にとっての好きは事故のようなもので、不意の出会いで、なんか知っていて知らないスッゲエ姿の存在が出てきた、という感触。会えて嬉しい、の感覚で占められている)
ただ、「みんなのようには好きって言えないんだよ」と頭を掻きむしってしまう気持ちが常にあった。本当に据わりが悪かった。
「みんなのように」そう言いたかったのかといえば否ですが、「好きや愛を取り巻いている様々な当たり前の部分」が馴染まなかった。
「好きになることって素敵なことだよね」「それって当たり前に尊いことだよね」という称揚がちらついて、気が散る。何より、「自分の好きはそういうのじゃないっぽいな。しまっとこ」という感覚をごまかせない。
そもそも、他の人が対象に向けている愛や思い入れや好意のことを、己は結局のところ全然理解していないんだな、とわかってしまった。
「同じように思い入れているならばわかるはずのものだろうに」と思ってみたところで、言ってしまえばそれは頭の理解に過ぎず、「つまるところ自分のそれって言うほど思い入れでもなかったのでは?」と思い至ってしまってしばらく経ちます。
何かを本当に運良く好きになれた時にひどく嬉しいのは、「自分にも好きになれるものがある」という出会えた喜びと、「自分の内にも何かしら愛と呼べる類のものがあったのかもしれない」という期待感で浮き立つから——
そう今さらわかったところで、「なるほど自分がこだわっていたのは自分の中の愛の有無か。しかも無いのか」となってしまい、まあまあ打ちのめされています。
「自らの内に愛がないなんて大げさな」と優しい人は思うかもしれませんが、「人が言うようなそれ」はないのだとそろそろ断言できそうな気もします。
(たとえば家族といった)目をかける他者はいる、ただ好きかどうかは別、ある程度大事だとしても好いているかは別、愛していると胸を張れるかと言えば……否かな……といった具合で、愛は自分の中では「自然な」感情たり得なかった。
(友人のことは……大切と言える、大切なつもり、健やかかつハッピーでいてほしいと思っているけれど)
最近、『安全に狂う方法(赤坂真理著)』と『ファンになる。きみへの愛にリボンをつける(最果タヒ著)』を読了しました。(外部urlは下記)
前者の後半に対しては「愛や祝福の大切さはそりゃそうでしょうね」となり、後者は全体的にめちゃくちゃわかるな〜!という部分と「そういうファンとしてのまっすぐな好きや愛はやはり尊ばれるよな(本人の望む望まざるにかかわらず)」という部分の板挟みになりました。
もっともこれらも個人の感想に過ぎず、それを脇に置いて両者とも意義のある本だと思います。
愛や好きにまつわる価値観——あって当然、かけがえのない大切なもの、人としての営為、生きる上での推進力、人が苦しみとともに獲得するものetc——そういった絶対に滅びない不文律から背を向けざるを得ない自らの性根に対する落胆と、無邪気な称揚に対する怒りや憎しみ。
人が人に(あるいは人以外に、あるいはこちらに)向けるそれらをあまり解しないのってたぶん外道の所業で、そこに異論はないとはいえ、「なんで自分はこうなんだろうな???」と本当にうんざりしてしまう。
そして、今のところ、それら倦怠の打開策はない。
(他者や世界と関わっていくor自らを大事にしていくみたいなのが鉄板なのでしょうが、現状としては本当に勘弁してください以外の気持ちがないです)
時間と生活が解決するかな〜……と高をくくりながら、Duolingoの数学モードで遊んでいます。これ楽しいですね。
そういうわけでオチがありませんでした。お読みいただき、ありがとうございます。
なんかいい感じの浮上ができた暁には書けたらいいなと思います。