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【小説】面影橋(二十三)

 一人になると疲労感と孤独感とがないまぜになったような重力がどっと肩にのしかかりました。夕闇に沈んだ窓の外をぼんやりながめていると気分もどっと落ち込み、そのうちそわそわ落ち着かなくなります。夕方症候群とでも言いましょうか。何もやる気が起こらない、人と関わりたくもない、そんな意気地のない自分が大嫌い、駄目な私、駄目な私、駄目な私……。頭の中ではネガティブ思考が延々と旋回し、昼夜逆転の長く苦しい夜の始まりです――雪が見たい、無性に。それは唐突な想念でした。私にとって雪なんて、冬になれば降るものにすぎません。寒くていやだなあとか、雪かきが大変だなあというのはありますが、雪国で暮らすかぎり、嘆いたところでしかたありませんし、逆にウィンタースポーツに無縁な私には雪が待ち遠しいということもありませんでした。多くの道産子にとってそんなもんじゃないでしょうか。それはあまりにも当たり前の日常で、こっちの人のように天からの贈り物的なロマンチックな思い入れの対象にはなりえないはずでした――雪に癒せぬ苦悩はない、誰の言葉?どこで読んだ?――この時季、私の故郷では尋常でない量の雪が降ります。小さい頃、寒がりの私は家の中から雪を見るのが好きでした。実家の居間の大きな窓越しにながめていると、夜などは水族館のイワシのダンスショーみたいで、雪は一つの大きな群れのようでした。雪が降り積もり脱色されていく世界の抽象的な美しさ。思えば私のモノクロ好きもこの辺に淵源しているのかもしれません――ああ、雪が見たい、私は頭の中で大雪を降らせました、永遠に降りやまぬかのような雪、雪、雪、このまま埋もれてしまいたい――そう、あれは彼女に教えてもらったんだった、確かロシアの詩人、名前を思い出せない――帰りたい、でも帰りたくない、私が抱えていたジレンマは結局そういうことだったのだと思います。両親が嫌い、顔を見るのもいや?私だって少しは大人になっていましたので、彼らの弱さや卑小さ、悔恨や痛み、そうしたものにもちょっとは理解を示し、寛大な態度を取れるようになっていたはずです。いじめっ子が怖い?そんなもの、少なくとも精神的には克服していたように思います。所詮彼らは外の世界を知らず、狭い仲間内であっという間に老いていくだけの人種です。彼らに対し、私が卑屈にならなくてはいけない理由などありません――私が本当に避けていたのは彼女、あの唯一の友だったのだと気づきました。彼女とはもう長いこと連絡すらとっていませんでしたが、消息くらいは耳に入っていました。暮らし向きが良くないとかその程度のことでしたが。地元で良からぬ評判の男とデキ婚、10代で母親になりました。進学を夢見て、働きながら懸命に勉強を続けていたというのに。低学歴と無資格、田舎町では一生ワーキングプアを約束されたようなものです。あの光り輝いていた美貌が生活の重みに打ちひしがれ、躍動していた知性が灰色の日常に埋もれていく、無為と無知の世界への適応。深い失望。そう、彼女は私の惨めな青春にとって希望の星だったのです。地に落ちた星にすぎない彼女に会ったところで、憐憫などではなく、怒りに近い感情しか湧かなかったことでしょう。全く身勝手で、偏見に満ちた一方的な思い入れであることは分かっています。でもどうしてそんなゆがんだ、強い感情を彼女に抱いてしまうのか――はっきり言います、それは彼女が恋愛の対象に他ならなかったからです。自分がそんなような子であることは、小さい頃から何となく分かっていました。ただ私の思春期は毎日毎日降りかかってくる火の粉を振り払い、地獄のような日々を生き延びるのに精いっぱいで、そうしたことにちゃんと向き合う精神的余裕などありませんでした。彼女との出会いは私にとって知的な触発であったことは確かですが、それは上澄みのことで、その本当の意味は自己のセクシャリティーに遅まきながら直面せざるを得なかったことだと思います――そして告白、困惑、絶望、お決まりの陳腐な展開、言挙げする価値もない、消してしまいたい記憶――でも問題をごまかして女の友情は維持するということはできなかったと思います。私には分かっていました。もう彼女ほど好きになれる人は現れないだろうことを。マイノリティーをめぐる社会的状況は変わりつつあるかもしれませんが、この国が多様性に対して寛容で、少数者に対して優しくあるなんてことはあり得ないと思います。弱者への抑圧の転嫁こそが私たちの社会のデフォルトです――トラウマだ、セクシャリティーだ、何をつまらないことで悩んでいるんでしょう。私たちの業界ではその手のネタは大盛況で、似たような論文や研究書が安易に量産されています。陳腐な話です――孤独な生を受け入れる覚悟。その慰みとしての学問。学問と忍耐。私は子どもの頃からずっと、自分は孤独に強い人間だと考えていました。意味のない強がりです。打ち棄てられた犬のように独りぼっちになる、恐ろしいことに決まっています。そして独り寂しく老いることへの恐怖。若いのに何をと言われそうですが、ちょうどその頃、ウルフの日記の晩年の当該部分を読んでいて、それでそんな気分に同期したんだと思います――私は失敗者、それは老いたるラムジー氏の嘆きで、まだ若かった頃のウルフの日記の中にも見られる思い、1940年の老いたるヴァージニア、戦争の影、暗い日々、死の一年前、心を病み――自殺だ!――面影橋の停車場で降りた浮浪者のような身なりの若い男が、道を渡ろうとしたのでしょうか、足を引きずりながら、ふらふらと車に引き寄せられるようにして跳ね飛ばされた、自分から飛び込んだみたいに、そんな映像がぼんやりと頭に浮かびました――別れ際の会話だけど、てっちゃんは跳ねられたのがあの人だと示唆したに違いない――男は私と同い年の学生で死亡。ネットで見つかったのはたったそれだけの情報の短い記事でしたが、わなわなと震え力が抜けていきました。馬鹿げた話です。それっぽっちのことであの人と断定できるわけがありません。ここらは学生も多いですし。よく考えてみれば、私はあの人を一度だけ見かけて、その後は何度かニアミスしたに過ぎません。時間も経ってますし、記憶の中の面影もピンボケ気味です。よしんば私の妄想レベルの推測が当たっていて、そんな赤の他人が亡くなったとして、知ったこっちゃありません。何でパニックになることがありましょうか。頭ではもちろん分かっていました。でも単なる憶測は固定観念へと成長し、理性がいくら呼びかけても、頭の片隅を占領したその妄念はどんどん領土を広げます。明らかにおかしな精神状況でした――そう、はっきり目に浮かぶ――あの「闇落ちの夜」のことを後から思い出してみても、どこまでが私の妄想で、どこからが夢だったのか、朦朧として判然としないのです――あの人は自分から車に飛び込んだ、貧困と孤独の果てに、私と同い年の男、おそらく同じような種族の、不適応者の刻印、その絶望の深さまで我がことのように感じられる、私の身代わりで死んだ、私が死ぬべきだったところを、私が生き続けることに何の意味があるのか――雪が降る、しんしんと、死、死、死、ピコピコピコピコ!――消えたいな――ピコピコピコピコ!中途半端な眠りは携帯のけたたましい着信音で覚まされました。こんな夜中に誰?しばらく無視しましたが鳴りやみそうにありません。ピコピコピコピコ!――「師匠!生きてます?」。ぴろ吉先生でした。電話嫌いなのに珍しい。しかもおっきな声で。年末に開催されるコミケにあわせ上京する件について、事務的な確認の連絡でした。すっかり忘れてたけど、もうそんな時期なのか。とりあえずお正月に帰省はしない、自分の中で口実はできたように思えました。丸二日、一歩も外に出ないで布団にくるまっていたようです。雪洞でビバークする遭難者のように。何度メールしても返信がないので、それで電話をかけてきたらしく、カーテンを開けると実際は昼間で、ひどくお腹が空いていました。後で知ったことですが、私の様子がおかしいとてっちゃんが先生にメールして、それで心配して連絡してきたそうです。
 

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