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【随筆】【映画】もうひとつの時間 山中貞雄を追って

 あの場所が無性になつかしい、京都の西、鳴滝の地、音戸山のふもと、あのちっぽけな空間が——Heimwehというドイツ語、英語のホームシックの元になった言葉に、私の場合は「京都病」とでもルビを振りたい。病いのように郷愁が嵩じ、定期的に襲ってくるのだが、年が明けてからというもの、京都の夢ばかり見ている。原因に思い当たる節はある。年末に早稲田松竹で久しぶりに山中貞雄の「人情紙風船」を観たのだ。
 郷愁といっても、別に京都生まれではない。学生時代、遍歴時代、社会人時代と足掛け8年、京都で暮らし、そのうちの最後の3年、京福電鉄嵐山本線・鳴滝駅の近くに住んだ。時代劇の撮影所に通うようになり、この近くで住まいを探す必要があったからで、撮影所まで嵐電で2駅、自転車でも15分位で行ける便利さだった。しかし何より、山中貞雄への強い憧れと鳴滝の地がまとう神話的記憶の残り香が、私をこの地へ引きつけた。実際、私のボロアパートは音戸山のすぐ下で、ちょうど山中貞雄や稲垣浩が住んでいた辺りではないかと思う。

 「鳴滝組」。戦前、洛西の地・鳴滝に集った、世に名を轟かせた8人の監督・脚本家集団(山中貞雄、稲垣浩、八尋不二、滝沢英輔、三村伸太郎、萩原遼、土肥正幹、藤井滋司)の通称だ。「梶原金八」の筆名でシナリオを共同執筆、時代劇に新境地を開き、「鳴滝組調」の時代を築いた。その名声は、「梶原金八」を実在の人物だと勘違いした松竹の城戸四郎蒲田撮影所長が、「梶原金八を引き抜け!」と命じたという有名な逸話が残るほどだ。
 山中貞雄は1909年京都の生まれ。鳴滝に住んだのは1934年から37年までで、その間、次々とトーキーの傑作を生み出した。
 「丹下左膳余話 百萬両の壺」(1935年)を初めて観た人は、私がそうであったように、次のような驚きと喜びを覚えるのでないか。「こんなカラッとした感性の日本人がいたのか」と。隻眼隻手の剣客、大河内傳次郎演じる丹下左膳のイメージを確立したのは時代劇の巨匠伊藤大輔だが、日本的な情緒や悲壮美、不健康なニヒリズムが魅力の伊藤大輔の作風に対し、山中貞雄のそれは明朗快活、「髷をつけたアメリカン・ホームコメディ」。鳴滝組を「反伊藤大輔神聖同盟」と位置付けた同時代評は言い得て妙だと思う。山中貞雄の縁者ではあるが、伊藤大輔を崇敬するやくざ映画の名匠加藤泰はそうした丹下左膳像があまりお気に召さなかったようだが。「こけ猿の壺」を巡る人間模様をテンポ良い展開と小気味良い演出で描く作品は痛快そのもので、観終わった後の後味の良さは格別である。

丹下左膳余話 百萬両の壺

 「河内山宗俊」(1936年)は当時15歳の原節子が時代劇に初出演、ヒロインを演じたことで知られ、その可憐さはまばゆいばかりである。前進座の河原崎長十郎、中村翫右衛門の、チャンバラスターの芝居とは一味違うリアルな名演も光る。作品の終盤、情感あふれる姉弟の会話、背景にふわりふわりと綿雪が舞うリリカルな名シーン、日本映画史上最も美しい雪だろう。ヒロイン原節子とその弟のために命をかける無頼の好漢、河原崎長十郎と中村翫右衛門。「わしはな、これで人間になったような気がするよ。わしはな、今まで無駄飯ばかり食ってきた男だったが、それがだ、今度はそうじゃないだろう。人のために喜んで死ねるようなら、人間一人前じゃないかな……」。翫右衛門の台詞にグッとくる。

河内山宗俊

 「人情紙風船」(1937年)はカメラの三村明(ハリー三村)が撮るモノクロ映像が息を飲むほど美しい。明と暗のコントラストの設計は完璧といってよく、社会の下層で踏みつけられる人々の痛みと哀しみ、心の暗部と意地をとらえる。作風はこれまでの山中作品とは一変してペシミスティック。盧溝橋事件勃発の砲声を聞きながらの撮影であり、時代相を反映しているのだろう。やはり前進座の芸達者な座員たちが好演し、リアリズムに徹した山中貞雄の演出は新境地を予感させるものだったが、封切り当日に召集令状が届く。中国に出征し、翌1938年、かの地で散った。わずか28歳だった。「紙風船が遺作とはチト、サビシイ」という本人の言葉が残っている。

人情紙風船

 現存するのは上述の3本のみで、どれも堂々たる傑作だが、「残ったのはどちらかというと出来の良くない方の作品」という声もある。そんな謎につつまれた山中貞雄の全貌に少しでも迫りたくて、一時、山中や鳴滝組のシナリオを熱心に勉強したことがある。最高傑作との呼び声も高い「街の入墨者」(1935年)など、寸分の隙も無い、実に立派なものだった。ただ、湯屋の場面、前科者、入墨者の河原崎長十郎への周囲の白い眼、自分の腕の入墨に切なそうに目をやる長十郎、その表情が実に素晴らしかったなどという、当時実際に映画を観た人の具体的な感想を読むにつけ、演出も含めた山中作品全体の山容は霧につつまれ、ただ想像のうちにしかないのかなと思う。

 結局、撮影所にはうまく適応出来ず、別の道を探ることになった。山中貞雄と言ったところで、話が通じる人もいなかった。

山中貞雄(左)と親友の小津安二郎

 一度だけ鳴滝を再訪したことがある。面白からざること多々ありて、7年間勤めた新聞社を辞めることになり、旧知へのあいさつのため京都を訪れた。慌しい旅だったが、空いた時間を見つけては、残暑の居座る京都の町、思い出の地を西から東へと飛び回った。7年ぶりの京都は随分と変わってしまったなという印象だったが、鳴滝の閑静な住宅街ばかりは、全くといっていいほど変わっていなかった。もう取り壊されたんじゃないかと心配していた音戸山のふもとのアパートも、昔のままそこにあった。改めて見てみると、崖の下に置き忘れられたマッチ箱といった貧相この上ない佇まいだが、なぜかその頃、その狭い六畳間に、有象無象、様々な人間が出入りしていて、10人近くで雑魚寝なんてこともあった。“死屍累々”とでも形容したい光景だ。こんなこともあった――。

 あれは中国、台湾からの長旅から帰ってきた時のこと。目的であった台湾での映画の仕事探しが不首尾に終わり、この先どうしたものかお先真っ暗、失意の帰還だった。久しぶりの我が家、見ると部屋の窓から灯りが漏れているではないか。親しい友人には自由に使えるよう鍵を渡しておいたので、きっと誰かが電灯を消し忘れたのだろう。困ったものだと舌打ちしながら鍵を開けて入ると、ごろりと寝転がった友人のNが、我が物顔でテレビを見ていた。長い身長を伸び切ったゴムのようにして完全なリラックスモード、不意を衝かれた形のNは「あっ、帰ってきたんだ」と間抜け面であいさつ。「おくつろぎのところ悪いね」と恐縮する私。部屋の隅で遠慮がちにバックパックの荷をほどいているうちに、何で俺が気を使わなくちゃいけないんだ?とえらく腹が立ってきたが。おかげで感傷にもひたれやしない。Nは当時、高知の医大に通っていたのだが、単位が一つだけ足りずに留年、専門課程に進めなかった。期末に試験さえ受ければ単位はもらえるようなので、1年間何もすることがないという情けない状況に陥っていた。で、その頃、Nが恋焦がれていた、とっても魅力的なU嬢が京都にいたので、どこからか私の部屋の鍵を入手して、親にも内緒で高知から京都に生活の拠点を移していたようなのだ。結局、無聊をかこつNは、それから1年近く、翌年無事進級するまで居候として我が家に居座り続けることになるのだった……。
      
 そんなことを思い出しつつ、吹けば飛びそうな薄っぺらいドアの前からとっとと立ち去ろうとしたのだが、その時、“予感”のようなものが脳髄でパッと閃いたので、とっさにノブに手をかけると、やはり施錠はされておらず、そっとドアを開けると、案の定誰も住んでいなかった。がらんとして何もない粗末な部屋。よくこんなひどいところに暮らしていたもんだ。夏の終わりの夕陽が微かに差し込む六畳間をぐるりと見回していると、私が引っ越して以来、誰も住んでいなかったのではないか、ずっとこのままの状態だったのではないか、7年間、何も変わらなかったに違いないという不思議な感覚にとらわれた。その時たまたま空き部屋だったに決まっているのだが。

 鳴滝再訪はもう四半世紀近く前のことで、それ以来、京都は一度も訪れていないし、行く予定もない。それでいいのかもしれない。魂が磨り減り、人間性がぺしゃんこにつぶされそうな日々、どこかこことは別の場所で、全く別の時間が流れている様を思い描くと、不思議と心が慰められるものだ。そこは昔暮らしていたところであれ、旅で訪れた場所であれ、あるいは行ったことすらない土地であれ、どこでもいいのだろう。鳴滝のあのアパート、とっくに取り壊されているか、建て直されているに違いない。しかし、私の想像の中では、あの時のまま、誰もいない部屋で、地球上のあらゆる事象と無関係な時間が、ただ無為に流れている。

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橋本 健史
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