【随筆】【文学】オホーツク挽歌考(三・当て外れ)
閑話休題のような話。あるいは緩徐楽章か。
「オホーツク挽歌」関連の詩碑は他にどこかあるのか?と調べてみたら、旭川にあることが分かった。私が滝川市内で合宿をしながら映画を撮っていた時のこと。負け戦だった。間違った場所に穴を掘り続ける日々。気晴らしに旭川まで出かけよう。青空の下、旭川駅から常磐公園、市役所の前を通って六条十ニ丁目の旭川東高等学校前まで、見通しの良い、広々とした碁盤の目状の道をぶらぶらと散歩していると、堂々たる「旭川」詩碑が目に入った。
「旭川」も宮沢賢治の1923年夏の北海道・樺太旅行から生まれた作品で、「春と修羅」(1924年)に収められなかった補遺5編のうちの一つになる。
7月31日夜に花巻を発った賢治は、8月2日午前4時55分に旭川駅に到着したと推定されている。賢治は小さな馬車に乗り、六条十三丁目の農事試験場を目指すが、その間の移り行く情景をスケッチしたのが長詩「小岩井農場」を思わせる詩風の本作だ。馬車やハックニーという道具立ても、「小岩井農場」への連想を誘う。
精神の暗闇を一人歩むように悲愴で、緊張感が張り詰めた「オホーツク挽歌」詩群の中ではひときわ異彩を放つ、早朝の清々しさでいっぱいの、寛いだ気分の作品となっている。こうした相反する二重性――すなわち「春」と「修羅」――こそ、賢治の作品、その人間性の本質ということになうろか。8月の北海道、湿度の低い、内地とは異質の爽快な空気感、そのひんやりとした朝露の中、馬車に揺られる至福感は無上菩提=最上の覚知、仏の悟りという最大級の喜びの表現をとなる。
実際には目的地の農事試験場は郊外の永山に移転していた。当て外れだったわけだ。賢治はしかたなく引き返したのか?賢治の旭川立ち寄りについては、石本裕之氏の好著「宮沢賢治 イーハトーブ札幌駅」に詳しい。
「オホーツク挽歌」行の目的、「亡妹トシとの交信」など達成されるはずもない望みに違いない。科学者としての賢治の明晰な“理智”は、宗谷海峡まで渡る極北への幻想の旅が、壮大な<当て外れ>に終わるであろうことは半ば、いや十分に分っていただろう。
この点について、見田宗介は「けれどもこの愚行を助走しつくすということをとおしてはじめて、異の空間への離陸もまたありえたのだということを、詩人の非意識のもっと大きな<明晰>は見ていたのだろうと思う」と述べている。若かりし日に読んで、特に心に響いた一節だ。引かれた傍線の力強さがその時の感銘を思い出させる。「異の空間への離陸」とは、直接的にはこの挽歌行の<解放>としての「銀河鉄道の夜」の成立ということになろう。ただこの一文はもっと広い文脈、深い意味で捉ええると思う。「愚行を助走しつくす」という言葉の切実さは、私にとって昔も今も変わらない。
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