【小説】面影橋(十八)
「師匠、つきあってくれませんか。一人では入りにくいんで」。その店は明治通り沿いの地味なビルの二階にあり、小さな看板こそ出していますが、普通なら見逃してしまうところでしょう。さすがはヒッキー。せいぜい大きめのリビングくらいの広さにゆったりとしたソファとテーブル、そして巨大なスピーカーと大量のLPレコードを収納した棚。初めての名曲喫茶でした。店に入るなり、私ははっとしました。あの曲、あの人がよくピアノで弾いていた曲がかかっていたのです。マーラーの交響曲第五番だそうです。有名な緩徐楽章なら、私もビスコンティくらいは観ているので知っています。札幌時代、大学の近くの映画オタクご用達の名画座でかかっていたのを、ぴろ吉先生に薦められて一緒に観ました。あの甘美なアダージェットのある交響曲の冒頭、第一楽章を弾いていたようで、ピアノ編曲版でもあるのかと思ったのですが、作曲者自身のピアノによる自作自演の録音が残っているそうです。温顔の店主が丁寧に教えてくれ、そのレコードをかけてくれました。「よくこれをリクエストする若いお客さんがいるんですよ」。私は納得しました。あの人はマーラー本人の演奏を完コピしていたに違いありません。
ある企みが思い浮かびました――この店に通い、もしあの人と居合わせることになったら、このレコードをリクエストする、「えっ?」、あの人は驚いて私に声をかけてくるに違いない――まあ、そういうロマンチックというか、ベタな展開というのは、漫画やアニメやラノベの世界だけで、現実にここであの人に出会うことはありませんでしたが。
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