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【随筆】【映画】星と奇蹟

 「もしかしたらビクトル・エリセに会えるかな」。私と友人はそんな淡い期待を胸に抱いていた。学生時代のこと、私たちは初めての海外旅行、スペインへの旅立ちを前に、少し興奮していた。「それにしても、エリセは映画を撮らないで、どうやって食べているんだろう」。「さあ、奥さんが作家らしいから食べさせてもらってるんじゃないか」。大きなお世話であるが、当時情報はほとんどなかった。「だったら奥さんに何かプレゼントを持って行こう」。何が「だったら」なのか、そのロジックはともかく、私たちは空港の土産物店で、見てくれだけは立派な大きなガラスケースに入った日本人形を買い求め、意気揚々と機内に持ち込み、旅の間中、文句たらたら持ち歩いた。何でそんなことになったか。Young hearts are foolish.
 私たちは夜行列車で陸路、ピレネーを越えてスペインに入った。そうすることが、バスク人・エリセへの敬意ででもあるかのように。エリセゆかりの街、サン・セバスチャンの美しい丘と海岸は忘れられない。夜行列車でさらに南下し、夜明けに停まった名前も知らない小さな駅。外に出てみると、絶好のマジックアワーで、朝日に染まった荒涼たる大地、アナとイザベルのカスティーリャのメセタが広がっていた。「南欧のキェルケゴール」ミゲル・デ・ウナムーノの街、サラマンカの黄金色の広場。「ミツバチのささやき」(1973年)では父フェルナンドとウナムーノの関係が示唆されている。マドリード、トレドへ。その後、私は友人と別れ一人、エストレリャのひそみにならうかのように、El sur 南へ、映画では描かれなかったアンダルシアを目指した。ガルシア・ロルカ巡礼が旅のもう一つの目的であった。一面のオリーブ畑、ロマの歌と踊り、「ジプシー歌集」の世界――。
 マドリードに残った友人はというと、博物館経由らしいが、エリセの住所を突き止めて、例のプレゼントをアパートの管理人に託すことまでは成功したというのだから、たいしたものである。その後、エリセ夫妻は別れたというから、あの人形は一体、どうなったものか――。
 
 それから一体どうなったんだろう、あの主人公や登場人物たちはと、映画を観終わった後、あれやこれや空想に耽りたくなるこことは誰にでもあるだろう。ビクトル・エリセの「エル・スール」(1983年)はそんな作品の筆頭だ。だいぶ昔、15年も前のことのようだが、映画と同名の原作小説の翻訳本を書店でふと目に留め、しばし足が止まった。作者はアデライダ・ガルシア=モラレス、エリセの映画学校時代の同期生、すなわち映画製作当時のエリセ夫人、そう、私たちのプレゼントの受け取り手(?)、その人だった。表紙をぼんやり眺めていると、若き日の旅の思い出がよみがえるとともに、まだ見ぬ映画の<結末>の世界へと誘われるような気分になった。<南>へ旅立ったエストレリャは何を見たのだろうかと。

 映画は父親・アグスティンの自殺を機に、娘・エストレリャがその秘められた謎を解き明かすため父の故郷・セビリャへ旅立つところで終わっている。よく知られているように、脚本ではエストレリャのアンダルシアでのエピソードが用意されていたが、経済的理由など製作側の判断で撮影は中止された。「ミツバチのささやき」の幻のオープニング(拙論「見出された時」参照)、自身のお気に入りのアイディアをカットされたプロデューサーのエリアス・ケレヘタの意趣返しではという見方もあるようだ。完成した映画の結末は絶妙なオープンエンディングになっており、なんとも深い余韻を残すが、エリセ自身は作品は未完であると公言している。そういえば、「マルメロの陽光」(1992年)は<未完>そのものをテーマにした作品であるともいえるし、「瞳をとじて」(2023年)は<未完>の映画「別れのまなざし」をめぐって展開する。

 父は死の前夜、娘の枕の下に二人の絆の象徴である振り子を置く、それは南へ行き、自分が果たせなかった願いを遂げてほしいという父から娘への密かな命令であり、旅に出た娘は、北と南に引き裂かれた父の自我を統合し、そのことによって自らも成長する――つまり、南への旅が欠落したことにより、作品のテーマそのものが宙吊りにされてしまったのだというのがエリセの考えだ。
 映画の謎解きのように読み始めた原作であるが、アデライダによる自伝的な中編小説が、映画とは全く異質の魅力をたたえていることに大きな驚きを覚えたことを記憶している。南から逃げるように移って来た家族、マジカルな力を持つ父、影の薄い母、振り子を通して父から娘へ伝えられる霊力、初聖体拝受、父の愛人の影、苦悩と自殺――プロットの大筋こそ映画に生かされているが、登場人物やその性格、設定などは大きく変えられている。というより、作品そのものの味わい、質感が全く異なる。繊細な光に照らされ、淡く浮かび上がる人影を主調としている映画に対し、原作の世界は深い闇に覆われた、人間心理のくっきりとした影絵のようである。うまくいえないが、そんなように感じた。
 例えば教会への背反について。娘の初聖体拝受、教会の一番後ろ、入り口近く、闇の中からすっと現れる父、映画の光と影のマジックの真骨頂といったショット。映画においては、父の教会への反発を通して、スペイン内戦の影、共和派=敗北者としての疎外、鬱屈、痛みなどが暗示的に照射されるが、原作においては、そうした政治的・社会的なコンテクストははるか後景に退き、前景で強調されているのは精神的双生児のような父娘の暗く妖しい資質、そのデモーニッシュで反カトリック的な性格である。
 「残念ながら」ではなく「幸いなことに」、原作を読んでも映画の謎がすっかり解けることはなかったように思った。主な挿話、異母弟との出会いやインセスト的な交感等は生かしつつ、映画の結末はやはり原作とは大きく異なるものになっていただろう。というのは、原作の結末において、エリセの示唆しているような和解・成長といった主題は希薄で、むしろ、主人公のアウトサイダーとしての運命の受容の物語のように私には読めたからだ。
 アデライダの原作に触発されつつ、背日性から向日性に、エリセの胸中で主題が変質した――<存在しない結末>に拘泥していてもしかたがないので、映画の冒頭、無比のファースト・シーンに戻り、空想に耽ると――。
 暗闇の中の寝室、窓から差し込むほのかな曙光、息をのむ青の階調、ベッドの中のエストレリャ、けたたましい犬の鳴き声、父の失踪を知り大騒ぎする母の声、明るさを増す室内、枕の下に置かれた振り子、強烈な朝の光、ラヴェルの弦楽四重奏曲ヘ長調の幽玄な調べ、永遠の別れの確信、フェードアウト・イン――淡く優しい光に包まれた同じ寝室、ベッドには身重の母、母のお腹の上に振り子をかざす父、産まれて来る子どもを女の子と予言し、未来の娘をエストレリャEstrella=<星>と名付ける――物語の導入、主人公による長い回想の冒頭であり、父についての原初の記憶とされながら、理屈では記憶であるはずがなく、事実の伝聞に基づくのか、主人公の全くの想像なのか判然としない、模糊としてどこか神話的な表象。主人公の名前、原作ではアドリアナをエストレリャに変えたことこそ、原作に対する原初の、決定的な改変ではなかったのか――繰り返し登場する<星>の形象群、例えばエストレリャの指輪、ボーイフレンド・カリオコの落書き――父が娘を<星>と命名することに託された、希望、和解、救済といった<未完>のモチーフの胚胎――そうしたモチーフの成就にはミラグロスMilagros=<奇蹟>が大きく与るのだろう。幻の映画後半部は、父の乳母・ミラグロスが大活躍する喜劇タッチのものになる構想だったという。





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