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過去の感覚、あるいはデジャメヴュについて Ⅵ  Yu Amin

Ⅵ. 虚数

幻の過去の感覚は歴史的想像力によってでっち上げられてしまう。しかし、歴史的想像力が、その抑圧的な作用に対抗する手段となることもまたあるのではないか。抑圧する多数派の押しつけてくる「正史」というデジャメヴュに抵抗しそれを転覆させるための、被抑圧者の闘争としての歴史と過去の「創造」。この局面にあって幻の過去の感覚は、無意識の「発見=発明」と同様に、リアルなものとして新たに創造されねばならないものになる。しかし、この発見=発明は集合的想像力の対立という局面にあっては、精神分析にあってそうであったように個人の歴史のリアルにはとどまらない以上、必然的に政治性を帯びざるをえない。たとえば、コロンブスの「発見」とピューリタンの入植に始まるアメリカの「正史」に対し、ネイティヴ・アメリカンがベーリング海峡経由で旧石器時代に入植を開始し、ヴァイキングがグリーンランドを介して10世紀に到達していたアメリカの歴史、あるいはいまやスペイン本国以上、メキシコに次ぐスペイン語話者を有するに至ったアメリカの歴史の方を強調し、リアルな過去の感覚として根付かせることを企図するならば、そこにはすでにピルグリム・ファーザーズの建国譚を心理的支えにする白人英語話者との政治的闘争が胚胎している(忘却の淵にある被抑圧者の歴史の「救済」をめざして被抑圧者にとっての幻の過去の発見=発明を呼びかけるベンヤミンは、神学的かつ政治的、歴史哲学的かつ文学的な想像力を交差させ、このデジャメヴュの比類ない予感を抱いたまま死に追い込まれた。本人の難解なテクストを読解するにあたって見事な補助線を引き眺望を与えたステファヌ・モーゼス『歴史の天使——ローゼンツヴァイク・ベンヤミン・ショーレム』合田正人訳、法政大学出版局、2003年も参照のこと)。幻の過去の感覚が、それを感じるものにとって譲歩の余地のないものである以上、この感覚を違える集団同士は原理的には闘争しつづけるしかないだろう。それこそ巡礼始祖の子孫たちが「合州国」を建国した際に、国際法秩序への反逆でしかなかった独立を、理論的虚構である「人民」の抵抗権の発動として正当化したという事実が雄弁に物語るように、あらゆる革命は既存の法的根拠を覆し、その根拠となる過去(独立軍に反乱の権利を授けた「人民」、そして「人民」に基本的人権を授けた「神」)をむしろ創作することで、遡及的に(独立宣言ののち合州国憲法修正第2条はたしかに人民の武装する権利を明記するだろう)自己を正当化する暴力である。「正史」や多数の共感を得ている偽史が歴史的想像力の中でもはや「幻」とはみなされなくなるように、政治的かつ法的な想像力における幻の過去はリアルに感じられている「べき」ものであり、この過去を捏造したものが権力を手中に収めそれを定着させ始めるやいなや、やはり「幻」ではないことにされていく。後者の場合、そうした幻の過去が現実に及ぼす効力の規模は絶大なものになるだろう。社会契約という幻の過去が多くの国々の政治的過程を統制しているのはその証左である。天賦人権論や社会契約論という幻の過去=根拠はいわば社会の虚数=幻の数である。数学的想像力によってその二乗が負の数になるという操作的定義をされる虚数もまた、負の数がそこからはじき出されたところの幻の過去であり、数々の量子力学的発見や計算機工学的発明を効果としてもたらしたのであり、その遺産であるテレビゲーム上の映像の立体回転技術なんかの恩恵に浴するとき、少なからぬ数学者や物理学者は数学的・物理学的想像力を働かせて背後にある虚数という幻の過去を感じているかもしれない。とはいえ、虚数を一般人が感覚することはもとより困難なように、政治的想像力における幻の過去もまた、その感覚が鈍磨しやすい代物であり、その実感の目減りを補償することが権力のつねなる関心である。

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