終末論的思考の現在(第一回)  Yu Amin

時間は永遠のひとつのイメージである。だが、同時に永遠の代用品(Ersatz)でもある。
シモーヌ・ヴェイユ
1.終末論の射程

平生、千年も先のことを考える人間など果たしているものだろうか。個人や社会、国家の将来を案じても、われわれの貧困な想像力が辛うじて及びうるのといっても、せいぜい百年が関の山であろう。千年という―ましてそれ以上の単位の年月がその輪郭をぬっとあらわし、その質感をこれでもかと感じさせる場、そのたいていは「危機」への嗅覚が鋭くなるときにたちあらわれる。
「千年(後)」という時間のスパンは古代のキリスト教世界以来、西洋にあって世界の終末を画する特権的な時(未来)を意識させてきた。時代の危機にあたって巻き起こった少なからぬ民衆運動が、終末ののちに来るべき理想社会を「千年王国」と称したことからもなおさら千年という契機は終末論の余情を喚起してやまない。堕落したこの世界の終わりが画される時、そしてメシアの再臨によってこの世的なあらゆる苦痛からの救済が約束される日を待ち望むというメンタリティーは、(ユダヤ-)キリスト教的な直線的歴史観に基づくものであるが、世俗化の時代である近代以降にあってなお、テロス(目的=終焉)を想定する種々の進歩史観にその骨子は引き継がれた。もちろん、終末論をその中心に据える歴史意識は、キリスト教的な、神的なものの観念を受け継ぐ―「内在」を文脈化した(ジャン-リュック・ナンシー)―西洋近代の概念装置とともに徹底的な哲学的吟味=批判の対象となっている。しかしながら一方で、終末論的な語彙が担ってきた「救済」や「メシア」といった主題は、前世紀から続くカタストロフィーが現実味を帯びた時代状況とも―幾分気分的なものとはいえ―あいまって、むしろ二〇世紀の思想の先端を担ったものたちに強く共有されてきた。もちろん「メシアニズムなきメシア的なもの(le messianique sans messiah)」について強靭な思考を展開したジャック・デリダ、そしてデリダが「メシア的なもの」を思考する上で決定的な影響を受けたエマニュエル・レヴィナス、モーリス・ブランショ、そしてヴァルター・ベンヤミンらのことである。
エティエンヌ・バリバールは、アルチュセールとデリダそれぞれのテクストの交差配列的読解を示唆するなかで、終末論(及びバリバールのいうところの終末論と峻別されるべき「目的論」)という語が思想にもたらす磁場を描くようにして次のように述べている。
(前略)なぜたえずこの両語が、未来(そして未来の未来)に関する政治的な論争―これはつねに宗教的な論争でもあり(おそらく私たちが与えることのできる「宗教」のただ一つの定義とは、宗教とは未来への関心であるというものだ)、また哲学的な論争でもある(「批判的な時間概念」を彫琢すること以上に、哲学にとって根本的な問いは、また哲学に分裂をもたらす問いはないのだから)―の周囲で相交わるのかを理解することも重要となる。

バリバールのここでの指摘は、現代思想がとりあげてきた「終末論」的思考の位相を俯瞰する上で重要な手がかりを与えるものだ。まず第一に、未来、そして必然的に未来の存在である他者についての不可能な思考が宗教的思考(終末論的パースぺクティヴもが一神教の歴史あるいは時間意識を規定しているものであることは言を待たない)の作法を呼び覚ます傾向をもつということである。次に、「批判的な時間概念」の提起という哲学的な問題が「終末論的」思考にともなって浮上するということである。本稿では、デリダとその思想史上の対話者たちがそれぞれ、聖書の黙示録のヴィジョン、つまり単にメシアが到来し世界を救済するというヴィジョンとは異なるメシア的思考をどのように紡ぎ、またそのなかで未来や他者、時間についての宗教的かつ哲学的な主題にどのように取り組んだかを簡潔に振り返るとともに、デリダ的「メシアニズムなきメシア的なもの」の思考が批判される余地について検討してみたい。

2.黙示録的状況から

さて、「千年」というテーマに即して身近なところに視点を移してみたい。近時、何千、何万という単位の年月が語られるのをわれわれが少なからず聞かされることとなったのは、もちろんあのフクシマの出来事であった。フクシマの出来事は、これほどまでにはっきりと「故郷」を喪失した人たち、帰還をなかば永久に断念せざるをえないばかりか、彼らの記憶を故郷につなげていくこともあたわなくなった人たちを生んだ。かれらは、いまやフクシマ以後のあらゆるカタストロフィーとそれにともなう故郷喪失者の予型的供犠にされてしまったかのようだ。また、その制御=計算不可能性をこれまで以上にあらわにした原子力発電をめぐる議論がかつてないほどに巻き起こった。わたしたちの時代の繁栄のために未来の子孫に原発という負の遺産を残していいのか、というシンプルな問いもようやく現実政治の力学系に場をなし始めたようだ。もちろん放射能の半減期をさしていた途方も無い数字たち、千年や万年をゆうに超えた年月がはたして本当にわたしたちの時間意識を根底から揺さぶったのかどうかはまだ定かではない。また本稿は、昨今の保守政権の返り咲きとそれにともなう原子力政策のバックラッシュについて論じるものではないことをあらかじめ断っておきたい。しかし、現下の政治的状況がどうであれ、原子力発電の存否をめぐる個別具体的な議論が、「未来の他者」=絶対的な他者をめぐる思考をにわかに活気付けたのはたしかである。
周知のように、前世紀から続く科学技術の進展は、十九世紀までのオプティミスティックな科学観の基盤を侵食させるほどに両義的な産物をもたらした。いうまでもなく核=原子力エネルギーめぐる難問である。核兵器の登場によって終止符が打たれた第二次世界大戦と、いまや核兵器をめぐる壮大な心理戦として総括できてしまうといえなくもない冷戦の半世紀を―そしてもちろんnuclearの裏面をなす原子力発電の漸進とその脆弱さが露呈されるという事態を経て、カタストロフィーに取り組む思考がその存在感を増している。もちろん、核=原子力に限らずわれわれ自身の非自然的活動によって、地球環境が決定的に変異し、われわれを含めた地球上の生命全体の生存が危ぶまれるような事態が引き起こされかねない、という懸念は今日さまざまな文化的媒体を通して表象化され、それを口にした者にある種の陳腐さを感じさせるほどにまで人口に膾炙している。しかしながら「世の終わり」をめぐる言説は日常性に回収されつつある一方で、社会思想や倫理学の領域に重大な問いを投げかけるばかりか、これらのディシプリンの問題構成の前提の一部すらも変えてしまった。 特に二〇世紀後半以降、核=原子力をその究極の発現とするような技術と人間の関係性のうちにこのような事態を定位していったのはハイデガーとその影響下にあった哲学者たちであった。ハイデガーによる技術論とその重力圏にあるドイツ語圏の哲学的議論に立ち入る余裕は無いが、ギュンター・アンダースのように終末(論)が現在へビルトインされているという見解は別途十分検討されなければならないだろう。また、技術の時代の「プロメテウス的落差」を背景とした、未来の他者との倫理的関係を追及する動きも倫理学の領域にあらわれているということも無視できない。いわゆる世代間倫理をめぐってはハンス・ヨナスやジョン・ロールズが優れた論考を残しているがここでは触れない。
技術の時代やその帰結としての破局そのものを、そして未来の他者との倫理的関係性を俎上に載せた重要な思考が少なからずあるのを確認したうえで、「メシア的なもの」を取り巻く思想―当然この系譜の端緒をわれわれはレヴィナスから始めなければならない―のなお際立つ点を先のバリバールの簡潔なコメントが示してくれている。宗教的思惟や時間-他者概念を、そして全的な救済の方途をあらゆる形而上学に抗して新たに提示するような決定的な思考、それこそが終末論的パースペクティヴであり、政治哲学上の、対称的関係性のうちに据え置かれた未来/他者論が欠いている思考なのである。

3.メシア性の位相変異―レヴィナスの場合

前世紀の戦争と技術の時代にカタストロフィーの危機を実存的次元で感じることを文字通り余儀なくされたユダヤ人であったレヴィナスこそが、西洋精神史にメシアへの志向=思考を呼び起こしたのは単なる偶然とはいえまい。ホロコーストで親族の大半を抹殺されたレヴィナスは黙示録的事態を想起して次のように述べる。

「壊れた世界」とか「覆された世界」という表現は、今やありふれた常套句と化してしまったが、それでもやはりある掛け値なしの感情を言い表してはいる。諸々の出来事が合理的な秩序から乖離してしまい、ひとびとの精神が物質のように不透明になって互いに浸透し合えなくなる、そして多様化した論理は相互に不条理をきたし、<わたし>はもはや<きみ>と結びつきえない、その結果、知性がこれまでおのれの本質的機能としてきたはずのものに対応できなくなくなる—こうした事態を逐一確認してみると、たしかに、ひとつの世界の黄昏のなかに、世界の終末という古くからの強迫観念が蘇ってくる。(中略)世界の終末という状況のなかで、私たちを存在に結びつける原初的な関係が立てられる。

「古くからの強迫観念」として迫ってくる終末の空気が以後のレヴィナスの他者論の根幹に存在するということがよくわかる一節である。ハイデガーが「贈与」としてその全き現前を志向してやまなかった「存在」の開示は、絶滅収容所の醸す死の空気を吸わざるを得なかったレヴィナスにとって、「不在の現前」として、単にあるということの恐怖として受け止められたのだ。この非人称的な存在は「イリヤ(il y a)」と名指されるが、このイリヤからの逃走が一貫したレヴィナスの軌跡であるといえよう。端的には、絶対の隔たりをもつ「他者」の希求によってレヴィナスはこの逃走を果たそうとするが、ここでレヴィナスの「メシア」的思考が発現されるのである。では、レヴィナスのメシアはどのように再臨するのか。自身が敬虔なユダヤ教徒であったレヴィナスにとって、メシアは来るべき存在であり、そのメシアへの実存的待望はイスラエルの再建という問題と不即不離であるはずだ。しかし、周知のようにレヴィナスが哲学的に強調するのは、自我を圧倒的しながら自我の主観性を条件付ける「他者」の存在であった。レヴィナスにあって果たしてメシア性はロゴスによって語る倫理という不可能性のうちにどのように位相変異したのか。ここに終末論的思考が前世紀に遂げた一つ姿を見て取ることが出来る。(続)

終末論的思考の現在(第二回)
―私は私の子供である―
飯野 雅敏

 前回の連載でわれわれは、エマニュエル・レヴィナスの名を通して終末論的思考のある形態を知ることになると予告したのであった。今回集中的に扱うのは、すっかり人口に膾炙した「他者の思想」のさらに先に待ち受ける次元である。レヴィナスはこのメシア的時間の境地をまさに、「私が私の子供である」と言明しているのだ。
さて、手短に本稿の要旨をまとめてみよう。
その主著『全体性と無限』は、他者の優位を基調とする倫理学を構築した哲学的著作として今日広く知られているが、それと同時に西洋的な歴史概念、時間概念を乗り越える新たな歴史概念を提示する試みであったといえる。このことは、『全体性と無限』の序文において、批判されるべき存在論の形而上学と志向されるべき他者の倫理学の対比が、「全体性」と「そのかなた」ないしは「歴史の内部性」の対比と重ねあわせられていることからも明らかである。また、「そのかなた」すなわち「無限」が、「メシア的、終末論的なもの」と呼ばれていたことは、レヴィナスの志向する新たな歴史概念が、ヴァルター・ベンヤミンが『歴史の概念いついて』において考察したメシア的な思考とある種のパラダイムを共有していたことを示している。
 今回は、ベンヤミンとの比較を交えつつ、レヴィナスが批判の対象とした従来の西洋的歴史概念、時間概念の特徴及び問題点を振り返るとともに、レヴィナスの「終末論」ないし「メシア論」がどのようにそれらの乗り越えを図ったのかを考察する。さらに、時間意識の変革による「忘却された記憶」や「内部性」の救済を図った両者の試みを、三次元空間を四次元世界として拡張して読み替える所作として再定義し、本稿の結論とする。また最後に、両者の異同についても取り上げ、「四次元的時空」というパースペクティヴがどのような課題を負っているのかを確認してみたい。

1.「全体性」へ連なる歴史―西洋的な時間と歴史の概念

 『全体性と無限』の序文の中で、レヴィナスはまず「西欧哲学はこの全体性の概念によって支配されている」 と述べている。また、つづけて以下のようにも述べる。

 (前略)諸個体はさまざまな力のにない手に還元される。その力が、知らず知らずのうちに個体に命令を下すのである。個体はだからその意味を全体性から借り受けていることになる(つまり、個体の意味はこの全体性の外部では不可視である)。それぞれに唯一のものである現在が、未来のために絶えず犠牲にされ、未来は現在の唯一性から客観的な意味をとりだすために呼び出される。究極的な意味だけが重要であり、最後の行為のみが諸存在をそれ自身へと変換するからである。

 ここで俎上に上げられ、「戦争」との密接なかかわりも指摘されている「全体性」とは、ヘーゲル的な歴史哲学がよくあらわすところの西洋的な歴史概念の想定する概念である。本節ではまず、その西洋的な歴史・時間概念とはいかなるものであったかを、ジョルジョ・アガンベンの簡潔な論考を参照しつつ振り返ってみよう。
アガンベンは、その論文「時間と歴史―瞬間と連続の批判」 において、キリスト教世界の誕生以来19世紀の世俗化の時代にいたるまで、西洋にあって時間は、キリスト教以前の古代世界の時間経験が「円」によって表象されていたのと対照的に、「直線」として表象されてきたとまとめる。こうした時間概念の祖である聖書の歴史観では、歴史は始点(創造)と終点(キリストの再臨による救済)によって区切られた線分として表象される。そして、その全過程は神の不可知の意図(摂理)によって全てが、救済という歴史の究極目標へと方向付けられ、その全過程で起こった一回限りの出来事は、歴史の最後に行われる「最後の審判」によって裁かれ、その最終的な意味が確定されるとされるのである。世俗化が進み、キリスト教の失効が表面的には明白になった近代にあっても、こうした目的論的(歴史には方向=意味 があるという歴史観)かつ終末論的(歴史の意味は歴史の最後=終末に定まるという発想)モデルはおおむね温存されてきた。その際に重要になるのは、アガンベンの指摘するところに拠れば、時間は、円ないし直線であると同時に「無限で数量化された点的連続体」であるという前提が、「アリストテレスの『自然学』を通じて西洋人の時間表象を二千年にわたって規定してきた」ことである。  直線が面積を持たない点の無限の集合として定義されるように、直線的(円的)時間は、実体を持たない(という意味でそれ自体に固有の価値が認められない)瞬間の無限の連続体として表象されてきたというのである。
 ことは『歴史哲学講義』を著したヘーゲルにあっても変わらないどころか、ますますはっきりしてくる。ヘーゲルにとって「世界史とは自由の意識が前進していく過程であり、(中略)その過程の必然性を認識しなければ」 ならないものであった。アガンベンも指摘するように、世俗化された西洋的な歴史にあっては、究極の終点としての救済のかわりに、歴史の発展と進歩の「過程」に歴史の意味が見出される。  歴史に属する個人や出来事の一つ一つは、その過程(ヘーゲルの場合は「自由に意識が進展する過程」である)を俯瞰しうる「全体としての」(決して全貌を個人が見出すことのできない)歴史に貢献する一要素に過ぎず、それらのもった意義は「全体性」が成就したとされる時にはじめて付与されるのである。ヘーゲルはこうした歴史観を、シラーの詩句を借りて「世界歴史は世界法廷である(Die Weltgeschichte ist die Weltgericht)」であるとより象徴的に述べることになるだろう。歴史の全体性、過程に意味をおくヘーゲルにとって、個人は直線を構成する瞬間が、みずからの否定を繰り延べてさらに否定することによって時間の流れを生むのと同様に「否定の否定」として解釈されるのである。

2.『全体性と無限』序文における「全体性」と「終末論的なもの」

レヴィナスが「個体は、だからその意味を全体性から借り受けている」と述べたのはこうした視点を前提にしてのことであり、「唯一のものである現在が、未来のために絶えず犠牲にされ」るとは、全体性にあって個人が、すなわちヘーゲルの文脈に沿って言いなおすならば、「過程」の主役たる国家にあって、歴史の内部に置かれた個人が、直線的時間にあって瞬間が無とされることなのである。『全体性と無限』にあっては、この過程=瞬間の連続としての時間=国家の論理からの、個人、「全体性と歴史の内部、経験の内部」 の救済こそが目指されているのである。
では、この全体性の論理を逃れる救済はどのようにもたらされるのであろうか。もちろん、「全体性のかなた」が「終末論的なもの」と言いかえられていることに着目すべきである。終末とはとりもなおさず「救済をもたらすメシア」の到来する時間であるからだ。しかしながら、レヴィナスの文脈における終末論は「全体性のうちに目的論的な体系を導入するものではないし、歴史が向かう方向を教えようとするものでもない。」

ここで『全体性と無限』そしてレヴィナスの思想にあっては、乱暴を承知で要約すれば、「「顔」の表出によって開示される他者の臨在とその他者への全面的な責任を主体に課すこと」が主張されていたといえよう。当然こうした観点からすれば、この「他者」の臨在は、レヴィナスの初期の論考である「逃走論」や「時間と他なるもの」以来一貫して指摘されている、外部への逃走―非人称のざわめきである「イリヤ」にはじまり、イリヤから実体化した主体における自己係縛性からの逃走の軌跡の延長線上に位置づけられるものである。換言すれば、メシアは「他者」として現れ 、救済はこの他者との非対称な関係のうちに成就されるということであろう。留意しなければならないのは、ここでの救済は、「イリヤ」にはじまる逃れがたき内部性からの逃避を完遂するものであったということである。では、序文にある「全体性」を乗り越える救済、つまり内部性そのものを救う救済はどのようにもたらされるのであろうか。次節では、他者の顔のさらに向こうに到来するものについて見ていこう。

3.「私は私の子どもである」の謎

 『全体性と無限』の第4部は、「顔のかなた」と題されるが、そこでは「顔」によって開示される他者とは異なる他者として、「エロス的なもの」という概念が示される。「エロス的なもの」との関わりは「繁殖性=父性」つまり「子ども」を主体にもたらすものである。ここで端的に表明されているのは、「私とは私の子どもである」という一見不可解な言明である。

 私の子は異邦人である(「イザヤ書」四九)。けれども、この異邦人である私の子は、たんに私のものであるばかりではない。私の子は私であるからである。

 この不可解な言明は、レヴィナスのユダヤ性を鑑みて考慮されることである程度その意味が明らかになるかもしれない。ヘーゲル的な歴史の主役であった国家の変遷は、レヴィナスの時間理解の中では「父と子」の系図のようなものに置き換えられていたり、ヘーゲル的な歴史が記述されるのに対して、タルムードがそうであるように、対面下で口頭によって告げられる伝承を想定するかのような関係として言い表されているといえるだろう。また、到来する他者としての死によって消滅する主体を、なお死に打ち勝たせ「救済」する方途として「繁殖性」、「子供」が志向されていることを踏まえれば、この言明は、「死後の生」として生きながらえる子孫に自らの面影を見る、という意味での救済を示唆しているのかもしれない。
 一方で、序文の以下のような記述に着目し、「私は私の子どもである」という言明の意味を、「終末論的なもの」という文脈に沿って考える必要もある。

最後の審判が問題なのではない。時間のすべての瞬間にぞくする裁きが問題なのである。

 檜垣立哉は、レヴィナスのこの言明に関して、「ところが子どもという他者、子どもとしての汝は、時間的に無限の未来を私に顕示してくれる垂直的な他者そのものなのである。」 と述べ、子ども=私が、因果律に支配された連続的時間を「垂直に切る」存在であると指摘する。檜垣の指摘は、垂直に切られた直線の断面をすなわち「瞬間」と捉えることによって、序文で言及された「瞬間」という言葉と呼応する。「瞬間的時間」こそが、直線=瞬間の連続という時間概念を乗り越えるものであると示唆されているのである。ここで両者をギリシャ人が言い慣わしていたようにそれぞれ「カイロス的時間」と「クロノス的時間」と呼んでもいいだろう。もちろんいうまでもなく、瞬間を連続的時間から取り出すという発想は、ベンヤミンの「歴史哲学」が採ったものに他ならない。ここに、ベンヤミンとレヴィナスを結ぶ共通の視点があるのだ。
 ここで、ベンヤミンの『歴史の概念について』の議論を要約すれば、「勝者の歴史である進歩の歴史が生み出してきた敗者、忘却されたままのあらゆる出来事、一瞬一瞬を、因果律に支配された連続的時間からたたき出し、新しい意味を付与して「今のとき(Jetztzeit)」として想起することで過去の救済をはかる」というものであろう。
 ベンヤミンにおいて終末論ないしメシア的時間が「一瞬一瞬」の想起による過去の救済であったこと、あるいはレヴィナスにおける「顔」の開示を通した他者の臨在としての救済は、「終末」(eschaton)という語を、その本来の意味である「あとにくるもの」「これからくるもの」として読み替えた結果であるといえる。歴史の終末にではなく、時間を垂直に切った断面である想起や対面の一瞬に、時間を断絶した「あとから」メシア的な出来事が起こるという両者の見立ては共通している。  しかしながら、レヴィナスが「顔のかなた」に描こうとする「私が私の子供である」境地は、メシア的時間=瞬間的時間という時間概念そのものを「四次元的時空」と言い換えなければ把握できないものではないだろうか。

4.結論―四次元的に読み替えられた時間としての「メシア的時間」

 レヴィナスは『時間と他なるもの』のなかで、その著書の意図を「時間は孤立した独りの主体の産物ではなく、主体と他者との関係そのものであるという点を示すことにある」 と述べていたことを想起しよう。他者なき主体が無時間的であり、他者の到来によって始めて時間的存在になり「永遠の現在」から解放されるという論理は、つきつめていえば「面積を持たない点」から他者=出来事、すなわち未来にやってくるものを契機とする「方向性を持った線」への次元拡張といえるだろう。
 「私は私の子供である」とレヴィナスが言うときもまた、こうした次元拡張の論理が働いている。たて、よこ、はばのみによって構成される三次元世界に加え、時間の方向性が感知できる四次元世界にあっては、過去や未来へと時間を自在に移動できることが重要である。つまり、三次元世界にあっては私の生きる時間は現在の一瞬を捉えることしかできないが、四次元世界にあっては、三次元世界にあって自らを包む空間を一瞬で感知できたりどこにでも異動できたりするように、自らを包む時間の全てをとらえ移動することができるのだ。「私は私の子供である」とは、私の属す一瞬と未来の無数の子供たちが属す瞬間とは四次元空間の視点に立てば同一の次元に存在する、と考えればより理解が容易になるのではないだろうか。正確に言えば、いかに理解ができないということが少しは理解できるようになるのではないか、と言い換えねばなるまい。自らの属す次元より高次の次元の事象はよりそれよりも低次元にしか表現できない、つまり四次元世界の事象をわれわれは完全に理解はできないからである。アガンベンが述べる「人間の知性は時間の経験はもつが、時間の表象はもたない」 という注意はこのことを指すといえよう。
 このことはベンヤミンについてもいえる。「人類が生きたどの瞬間も、「命令伝達の際の顕彰〔呼び出し〕(citation à l’ordre du jour)」となる。」 と述べたり、「時間のうちの一秒一秒が、メシアがそこを通ってやってくるかもしれない小さな門」 という言葉で筆を置いたベンヤミンもまた、この三次元世界を四次元世界として読み替えたといえるのではなかろうか。「瞬間」や「一秒一秒」には、「4Dグラス」のようなもので眺めなければ見えない「時間の全ての瞬間」が潜在的に共在しているのである。
 以上のように、レヴィナスにおける、全体性からのないしは死からの内部性の救済、あるいはベンヤミンにおける、連続的時間からの過去の一瞬の想起による救済はいずれも、三次元世界を拡張し、四次元世界として捉えなおすことによって図られたと言い換えることができるのではないだろうか。四次元世界にあっては、一瞬一瞬は常に全時的に存在し、全体性や勝者の歴史によってその意味を回収されることは無いだろう。

5.歴史の天使はどちらを向いているか

 前節まで、レヴィナスとベンヤミンがともに西洋的時間概念や歴史概念を批判する視座をもち、両者ともに連続的時間に対して瞬間的契機を対置し、そこに従来の終末に到来するという意味ではない新たな意味でのメシア的出来事の到来を見出していたことを見てきた。そして、彼らの、歴史の不可逆的な流れに対する「真正な革命」(アガンベン)すなわち、歴史の中に埋もれてしまう個人や記憶を救済のために「時間を変え」(同)ようとする試みを、筆者なりに三次元世界を四次元へと拡張することとして捉えなおした。
 しかし、当然のことながら両者の想定する「四次元」の差異にも気づかされるものである。「私が私の子供である」境地を語るレヴィナスの意識は、一貫して未来に向けられている。「時間と他なるもの」において、他者や死といったものが「出来事」として、主体に不意打ちを食らわせるものとして未来に起こるものとして捉えられていたことの延長に「子供」という私の「死後の生」がすえられるのも当然である。「私が私の子供である」ことの希望とは、「次元拡張の論理」に沿って言い換えるならば、私が常に未来の全ての瞬間と四次元的にはともにあるということの希望である。
 一方、ベンヤミンの「歴史の概念について」を貫くまなざしは、過去のものの救済、つまり過去に向けられている。断章Ⅸでは、パウル・クレーの絵画からそのイメージを採られた「新しい天使」は「その顔を過去に向けている」と明言されている。この天使はあくまで過去の方を向きながら、「進歩」の嵐によって未来のほうへと追いやられている。ベンヤミンの四次元世界にあっては、未来は積極的な意義を持っていないようである。このような両者における「未来」/「過去」の強調ないしは不在がどういったところから起因するのか、またどのような帰結を両者の思想の中でもつのかは別途検討されなければならないだろう。

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