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過去の感覚、あるいはデジャメヴュについて Ⅴ  Yu Amin

Ⅴ. 古き良き時代

 奇想の披瀝に倦むことを知らぬボルヘスにはまた『幻獣辞典』(El Libros de los seres imaginarios,1967[マルガリータ・ゲレロとの共著。柳瀬尚紀訳、河出文庫、2015年]という好著がある。ケンタウロスやトロールのような神話と伝説の主人公から、カフカの架空の動物(オドラデク)に至るまで色とりどりの未確認生命体を採録したこのカタログの中には、幻獣たちと軒を並べて「幻人」たちもまた紹介されている。17世紀の船乗りたちが東洋のどこかにいると語り伝えていた「《過去を讃える者たち》」(Laudatores Temporis Acti)という「宗派」の人たちがその一例である。この門徒たちが崇拝するのはある絶対的な「過去」なのだという。《過去を讃えるものたち》とは、ホラティウスの『詩論』(168-174)を出典とする成句で、フランスの古典成句辞典を引くと「古き良き時代を讃える人」(celui qui fait l’éloge du bon vieux temps)のことを指して用いられると書いてある。ホラティウスの原典にまで戻ってみると、この成句は、「[いままで稼いできた]財産をぐずぐずかつおずおずと管理しては、それを次の日にもちこし、希望も活気もほとんどないがために、[稼いだ財産で]未来をおのれの手中に収めておきたいと思うような」、要するに、すでに蓄積しきったと自負する経験や知識に寄っかかって変化を好まず、新しさに対して保身に走ることをその定義の一つに数える一群の人種、すなわち「老人」に冠された称号であったことがわかる。老人とは「気むずかしく、口やかましく、子供だった頃の過ぎ去った時代を讃える者(laudator temporis acti se puero)であり、たえず若者たちを批判し叱責してやまない」。原典にあたる限りだと、「古き良き時代」あるいは「絶対の過去」とは、老人が回想する「幼年期」なのである。幼年期こそが真実の最もリアルな生であるというあの主題は、古代の詩人の愚痴のうちにあふれ出た皮肉の変奏のようにも見えてくる。
 しかし、ボルヘスはこのフレーズを引用するにあたってある注釈と改変を施している。まず、ホラティウスが幼年期を指して用いていた、《過去を讃えるものたち》にとっての「絶対の過去」は、そもそも「《あったことのないかつて》」であるとされている。幼年期に根源をもつ無意識の存在論的ステータスはそれ自体では必ずしも盤石とは言えなかったように、あるいはもっと単純に幼年期の「真実」とも呼びたくなるリアルな記憶が、往々にして美化と修正をいくえにも被ったまがいものであるように、《過去を讃える者たち》の信仰の対象は幻の過去なのである。彼らが幻の動物として数えられているのは、後述するように彼ら自身の実在があやふやだからというよりは、彼らの信仰の対象が幻でしかない過去だからである。そして、信仰者にとって見えざる神の実在がリアリティをもちうるように、この宗門の人たちにとってもその「幻の過去」はおそらく有無を言わさぬ強度に貫かれたリアルな感覚を与えているはずである。幻の過去の感覚は、ここではイシグロの幻の幼年時代の日本像のように、字義通り経験された過去と区別されることはなく、ただ第三者の批評的眼差しにのみ幻として映るものである。しかし、老人の言い換えであった《過去を讃えるもの》を、ボルヘスが「宗派」という宗教的で狂信性をうかがわせる言葉を使って鋳なおしたことからうかがわれるように、それは、幻と指摘されてもなおその過去を現実として受け止め続けその感覚のリアリティに固執する人たちがいるのだ。イシグロの幻の日本とこの幻獣たちの信奉する「あったことのないかつて」を分かつ決定的な違い、それは作家のデタラメな日本が、基本的には個人の私的で伝記的な想像に根ざした無意識的な捏造の産物であるのに対して、幻の過去への「信仰」は個人にとどまることはなく集合的な求心力をもってしまうという点にある。ホラティウスの原典が「過去を讃える人(Laudator)と単数形で書いていたこの同じ名詞を、ボルヘスは「過去を讃える者たち」(Laudatores)と複数形で引用していることを見逃すべきではない。幻の過去の感覚は、集団的信仰にまで高められてしまうならば、詩的で私的な想像力のうちに生息していた頃のように軽妙で無垢なもののままではいられない。ことは集合的な記憶の「創出」がもつ反動的でも解放的でもありうる権能にかかわるからである。幻の過去の感覚は、歴史的想像力によって醸し出されているときには、学としての歴史が必ずや向き合わねばならない強敵にして共犯者となるのである。この過去と過去についての感覚(記憶)との関係は、「すべての歴史は現代史」であるというあまりにも有名な定式によって簡潔に説明される。歴史記述はつねに当世の歴史家が時代と共有した問題意識に導かれ、時代に制約された手法と資料によってなされるということ、それは、ある時代に強く共有され抱かれている他の時代についてのイメージが多かれ少なかれやはり幻の過去の感覚であるということを含意するだろう。12世紀という時代は、14世紀イタリアの文芸復興を称揚するミシュレやブルクハルトの生きた19世紀の歴史的想像力の中では取るに足らない文化的不毛の時代として表象されていたかもしれないが、「12世紀ルネサンス」が「発見」された20世紀前半以降にあっては全く異なったイメージを付与されている。バースのアデラードがエウクレイデス(ユークリッド)『幾何学原論』を、クレルモのジェラルドがアリストテレスの『分析論後書』などをアラビア語からラテン語に、ピサのブルグンディオがヒポクラテス『箴言』やガレノス『テグニ』をギリシア語からラテン語に訳して西欧世界に紹介し、ボローニャ、パリ、オクスフォードに大学が創立され、『アーサー王物語』、『ロランの歌』、『トリスタンとイゾルデ』、『ニーベルンゲンの歌』が次々と成立した12世紀前後に後世がいかに多くを負っているかを知るわたしたちには、もはや不毛の時代とは必ずしもイメージされはしないだろう(以下の名著を参照のこと。チャールズ・ハスキンズ『12世紀ルネサンス』別宮貞徳・朝倉文一訳、講談社学術文庫、2017年;ジャック・ヴェルジェ『入門12世紀ルネサンス』野口洋二訳、創文社、2001年)。イシグロの私的(そして図らずも詩的な)想像の中の日本に比べて、学問的に確約された手法で再現されたこの過去についての史的想像(12世紀についての現代のイメージ)は、それに対応する現実(実際の12世紀)により一層しっかりと錨を下ろしてもいるだろう。とはいえ、21世紀のひとたちが、地味ながらも堅実に学芸が進展していった時代として思い描く12世紀についての歴史的想像にしても、当然12世紀のあるがままの姿からはやはりそれなりにずれているに違いない。この時代がルネサンスと名づけられていることからして、14世紀の文芸復興が19世紀に「リナッシタ」(新生、つまりルネサンス)とすでに名づけられていたからにほかならず、12世紀ルネサンスが喚起するそうしたイメージは、8〜9世紀のカロリング・ルネサンスにもすでに適用されていた、文芸復興を一つの時代区分の指標とみなしそれをルネサンスと名づけるという19世紀的な歴史記述の作法を規範として継承した20世紀以降に固有の過去の感覚であり、歴史教育の結果それなりにリアルなものとして感じられているわけである。
 歴史的想像力において幻の過去の感覚が随伴するということは、当然のことながら過去についての記憶そのものが歴史記述という編集の結果得られるものであるということ、それが集団的に共有されるということを意味する。しかし、こうした史的想像力は、史学的考証を無視して都合のいい過去を捏造したり、都合の悪い過去を否認し、相対的に少数派をなす他の集団に対して抑圧的に振る舞うことを促す点で厄介極まりないものでもある。今日の日本でほとんどすんなりと受け入れられてしまっている歴史修正主義的な言説(戦時中の従軍慰安婦徴用に軍部はかかわってはいなかった、南京大虐殺は起こらなかった、など)などを引き合いに出すまでもないが、こうした信念は「なかったことにされたかつて」という「あったことのないかつて」のネガである。「あったことのないかつて」のポジを挙げるなら、日本が古来このかた夫婦同姓制度と性別役割分業を伝統として維持してきたと信じたり、江戸時代の市民が「江戸しぐさ」をするような高潔の申し子であったと信じるような連中がこれに当てはまるだろう。こうした「幻の過去」、「絶対の過去」への信仰には、史学的に有効な反証は用をなさないことが多い。夫婦同姓が舶来品であり日本の伝統どころかキリスト教世界の習慣であることを、前近代から戦前に至るまで人口の大部分を占めた農民は男女問わず農作業に従事していたことを指摘しても、そうした「古き良き」そしてナルシスティックな過去のリアリティはびくともしない。こうした妄想は幻の過去についての集合的な「感覚」なのであり、女性の社会的地位の向上など許しがたい少なからぬ男性の、朝鮮人や中国人をいつまでも蔑視しておきたい少なからぬ日本人の、自らの帰属する民族の優越を確信して、ちっぽけだが不安定な自己愛を満足させたいという身も蓋もなく下劣だが人間的な感情によってお墨付きを与えられている。だから簡単に手放すわけにはいかないのだ。ボルヘスは《過去を称えるものたち》の記述を締めくくるにあたって、「いまなおそういう過去崇拝者はいるだろうか——それともいまや、そのおぼろげな信仰とともに、彼らは過去のものとなっているのだろうか」と問いかける。しかし、この「幻人」は『幻獣辞典』唯一の例外をなしていると言わざるをえない。その崇拝の対象が幻であるのとは対照的に、この《過去を讃えるものたち》自体は幻でもなんでもなく、いまでも実在するのだから。

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