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Perfect Days
朝起きる、
湯を沸かす、
歯を磨く、
顔を洗う、
バナナを食べる。
適当な文庫本を1冊手に取り、
家を出る。
最近は、隣の駐車場にいる猫と挨拶を交わしてから駅に向かう。今日は寒いねとか、お前かわいいなとか。駅までの道にある八百屋の店の前には、色とりどりのカラフルな牛乳瓶のカラーボックスが積まれていて、そこに朝の光が差し込んで独特な影の形を作っている。今日はボックスの積まれ方がいつもに増して乱雑で、色の配置も好みだ。素晴らしい。昨日は慌てて閉店作業をしたのだろうか。あと3分で電車が来るのに、思わず立ち止まってシャッターを切る。そうやって同じ被写体を撮り続けることはたまにあって、あるときは銀杏並木を撮っていたし、あるときはガラス張りのマンションの応接室を撮っていたし、あるときは夕焼けを撮っていた。来る日も来る日も、同じものを。
駅の階段を駆け上がり、改札を通る。いつもと同じ8号車4番ドアの前に立ち、イヤホンを耳にさす。今日の気分は…とプレイリストを眺め、最近気に入っているボサノバのアルバムの再生ボタンをおす。穏やかであかるい、スイスの落ち着く朝のサウンドが脳を満たす。ばっちりだ、今日は一発でハマった。流行りのポップスを聴く日もあるし、ジャズの日もあるし、朝からクラブミュージックをガンガン鳴らしている日もある。そうやって毎日、自分の気分に神経を集中して選曲するのだけれど、なかなかしっくりこない日もある。気分が上がらない日にこそ音楽で癒されたいのに、調子が悪いと体が音を受けつけないというジレンマ。諦めてイヤホンを外し、ただぼーっと突っ立っていても、私の身体は都心に向かって確実に運ばれていく。
せっかく文庫本を持ってきたのに、読むのは5回に1回がいいところで、なんのために本を持ってきたのかわからない。何かあっても暇にはならない、という半分お守りみたいなものかもしれない。もっとも、慌ただしい平日に暇になる事態なんて発生するわけもないのだけど。電車という箱の中に入ると、私は何もできなくなるのだ。ただぼんやりと、窓の外を流れる景色を目で追いかけて音楽を聴く。カバンを開けて、本を出して、ページを開く、それだけの動作すら、する気が起きなくなるのだ。
乗り換え駅は混雑していて、改札に向かう人の波から外れないように慎重に溶け込む。前を歩く女の人が、真っ白なチュールのスカートの裾を引きずりながら階段を降りていく。たまに見かける光景だけど、あれ、本人たちは気付いてないのだろうか。だから私は嫌いなのだ、裾が広がったスカートを履いて出かけることが。そんな皮肉なことを考えながら歩いている自分のリュックのチャックが開いたままだったことに、後から気付く。別に恥ずかしいとも思わない、東京10年目の冬。
ついこの前となり街で彼氏と同棲を始めた友人から、「ボールペン洗濯しちゃって、服が墨汁垂らしたみたいになってる」とLINEが届く。私は「初めてのやらかし記念日だね!」と返しながら、かつて元恋人と暮らしていた頃の『焼きおにぎり炭化事件』を思い出していた。レンジで温め3分の焼きおにぎりを、なぜか30分加熱していたのだ。容器がドロドロに溶け、部屋中が焦げ臭くて、危うく火災報知器が作動するところだった。でも今、私には恋人はいないし、一緒に暮らしている人もいない。私のやらかし記念日など、言うに値しないことだ。
会社の最寄駅に着き、地下鉄の階段を登る。地上からは、空気が悪い都会の街の朝日が差し込んでいた。それは丸い滑走路の上で、いつか飛べると信じてぐるぐると走るような日々だと思う。人生が長い。着実に死に向かって、命を燃やして走っている。会社に行けばそれなりに充実感を持って働き、同僚と飲みに行って束の間時を忘れ、深夜に帰宅する、そんな生活に何の意味があるのか。みんな、それに意味がないと気付いて、気付いた瞬間から老いていく。例えば、毎日飲みに行くのをやめる、仕事をやめる。やめたって、結局滑走路は丸いのに。いや、滑走路が丸くて飛ばないと知っているからこそ、やめられるのかもしれない。
休日には家の掃除をして、料理をして、カフェに行って、文章を書く。誰にも乱されない、完璧な日々。そしてやはり思う、この日々の先に何があるのだろうかと。なんだかんだあっても幸せそうな人たち、隣の芝生が青いことに疲れて、わたしは諦める。諦めると、何も感じない、心を乱されることがない、空っぽになっていく。それは凪、心は真空の瓶の中。空っぽの心で見る光が美しい。光が美しいと思うのは、真空瓶にはどこまでも果てしなく、混じり気のない透明な光が届くからだ。平等に与えられるものは美しい。流れゆく雲、木漏れ日、夕焼け、海辺に寄せては返す波。愛する人がいないから自然を愛す。誰もに、つまり私にも、平しく与えられた光を愛する。
あなたは冬の紫陽花を見たことがありますか。すっかり薄茶色に脱色したそれは、丸い花をつけたまま、6月の花盛りと変わらず、同じ場所で密かに息をしている。来年の梅雨を遠く待ち侘びるようにして。心の中にもっと大事なことがあれば、気付かずに通り過ぎてしまうその枯れた花が目にとまって、強烈に記憶に残ってしまう、それが孤独なのだろうと思う。
最近は本を書いている。書くことに何の意味があるかと言われれば、何の意味もない。ただその行為が私にとってとても贅沢な時間に感じられるから書いている。
後悔の代わりに、思い出とよんでみる。
憂鬱を、大人のたしなみとよんでみる。
葛藤の末に、愛とよんでみる。
明日への不安を、生きる希望とよんでみる。
何かを諦めた生活を、完璧な日々とよんでみる。
それが、書くということの贅沢さだ。
誕生日に、おめでとうと言いたい人がいた。言わなかったのは、また一つ何かを諦めた証だった。23時56分、終電を捕まえるために誰もいない夜道を小走りで駆ける。息を切らしながら、誰もいない夜に「おめでとう」と言った。
春が近い、年に一度の大寒波の日のことだった。
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-Perfect Days