2024前半でみた記憶のあるもの
ばっふんほ!
(↑挨拶はまずジュー評論家の清水りょうこ先生リスペクト)
最近ヒマすぎて逆にやる気も消えたので記事化するのを忘れていたものについてまとめて書く回である
ぜんぶ終了済で、ラインナップは以下
平田尚也個展「Moonlit night horn」@S.O.C.
榎本耕一個展「Some lights」@TARO NASU
「Thirty Years:Written with a Splash of Blood」@BLUM
「天地耕作 初源への道行き」 @静岡県立美術館
第77回 日本アンデパンダン展 @国立新美術館
尚、文中敬称略
平田尚也個展「Moonlit night horn」@S.O.C.
最初は清澄白河のSOCでやってた(2024年1月27日〜 2月24日)やつっす
これは正直かなりよかった!! のでちゃんと書きたかったところではある
かなりコンパクトだが、オーナー(Satoko Oe)がめちゃくちゃ説明してくれるので逆に狭い方がいいまであるギャラリーだった
またこのときの展示はVR彫刻っていう分野でもある作家だったので、そもそも空間性を否定してるとこも相性良い
なお、いんすとれーしょんびゅー正直以下の記事みてくれ!!!
何がどういいのか
いくつか写真のせてく
この作家は彫刻やってたが「彫刻を作る場所とか置く場所が確保できない」&「材料費高杉」問題から、VRで彫刻を作るに至る、という極めて妥当な理由で制作のベースを移しており、そもそもその時点で使用しているメディアの説得力が高い
VRをベースにして3Dの作品を作る場合、スケールが無視できる
ちょうどこの会場にもUnityでつくったプレイアブルな作品があったが、3Dモデルはスケールを自由にいじれるので実寸っていう概念が希薄である
(いちおう1マス1メートルとか設定できるが、だからなんだって話になる)
そのため、それを3Dプリンタで出力すると、そもそも彫刻とはどのくらいのでかさであるべきなのか、という根本的な問いが発生するのがおもろしい
し、また同時に物理的に出力すると、プラモのバリのように、いろんなエラーが発生してしまって、これが陶芸における焼成とか釉薬の変化みたいな手仕事的効果を発生させているのもよい
バリバリデジタルの人だけど、逆説的にそれが人の手の存在を明確化させることになってる点が、よくある「言ってるだけのコンセプト」ではないところがええやん!っていう感想
またオーナーとはなしてたとき、(たぶんコロナ期に)NFTとかやらなくていいん?と平田に相談したところ、あんなんやらんでいい、言われたという話を聞いたのもポイント高い
榎本耕一個展「Some lights」@TARO NASU
場所は六本木ピラミデビルで、会期は「2024.2.16 - 3.30」だった模様
ポスト所ジョージ世代というか、高度成長期からバブルに掛けてのまだギリでアメリカ文化崇拝が残ってた時代の何かを感じさせる絵が多かった
スチャダラパーとかPuffyとか、その辺の空気感ということは、もろに団塊ジュニア世代っぽい(※いま経歴をみたところドンズバで当たってた
公式はこちら(←なぜか埋め込めない)
で、この絵なんだけどもKISSの隣にMinor Threatっちゅう絵で、この人いったいどういう音楽の趣味なん?と思ったんだけど画廊の人はあんまりわかってくれなかった
KISS大好きな人がMinor Threatとか聴く???みたいな混乱が訪れた
という点でよくわからんと思った絵だった
Thirty Years:Written with a Splash of Blood@BLUM
さいきんポー(POE)が分離してブラム(BLUM)だけになった元BLUM&POE@原宿でみたやつ
なんでみたのか?っていうと
ちゅうわけで「もの派」(に属すると分類されがちな)作家の作品が展示されてたから
具体的には菅木志雄、小清水漸である
ちょっと文脈がわからんのは浜名一憲、上田勇児、西條茜らの陶芸も一緒に展示されてることで、これについては
っていうことだった
まあ「土」とか「壁」系の作品ももの派の時代には多かったこと、そもそももの派の出だしが関根伸夫の位相大地だったことを考えると並置したい気持ちもわからんでもない
(単に所属作家の作品を並べたかった説もある
あれ? なんか彦坂っぽくね?
菅木志雄がなんか彦坂尚嘉っぽくなってる気が・・・
制作原理とかそういうのが違うのかもしんないが、実践としてはかなり近いところを突いてきてる気がする
具体的に同じとこ突いてると思うのは
・支持体と絵画の関係についての問い直し
なんじゃないかという点
彦坂のPwP(プラークシス・バイ・ウッドペインティング)の場合はそこに「透明」性とかのフロア・イベントから継続して続いてるテーマが流れてる点&時代としては少なくとも30年くらい彦坂が先行してるという点を無視するとアウトプットとしては似ている
これとは関係なく京都のギャラリー16で見た個展でも同じような追求を見たので、当時の彦坂の実践の価値が自分の中では急上昇
(彦坂らの)美共闘はアンチもの派だったわけで、それから数十年後にもの派と分類された作家の仕事と接近してきているのは興味深い
↑この作品は、もの派っぽさとそれ以前の60年代アンパンの雰囲気もあり、時代を俯瞰してみれるいまだから作れる作品でおもろいと思った
一方の小清水は、それがいいことなのかどうかは別にして、机つくってた70年代から一貫してぶれてない気がした
天地耕作 初源への道行き@静岡県立美術館
表題の展示を見に行ったわけだが、その他の展示もよかった&そもそも建物がすげえよくて大興奮
会期は2024年02月10日〜03月27日とのことなので、その辺で出かけてた模様
道中の彫刻群
で、駅からけっこう歩いたわけだが、道中に「彫刻の道」的なのがあって野外彫刻展みたいになってたのもおもろかった
目ぼしいというか写真とったのを挙げてくと
ゆうめいな抽象彫刻の作家であるロザティの作品
アメリカの作家で、こういうでかいのを公共空間に置きだした先駆け的な人らしい(よくしらん…)
抽象表現主義的彫刻とミニマル、プライマル・ストラクチャーズ的立体作品との違いがいまいちわからんかったのだけど、これをみると「確かに違げえな」と思った(確かに抽象だがぜんぜんミニマルではない
文脈的にはムア(昔の美術手帖風)→カロ→スミス→ロザティらしい
ちなみにこの道の最後にはミニマル彫刻のトニー・スミスの作品も展示されてるので、どっちも実物で確認できるのもナイス
え? しみず、じゃなくて「きよみず」のなの? 初めて知ったわ
当時、というか70年代だったと思うが、けっこう名前見かける作家である
つくば万博の頃の野外彫刻ってなんかこういう感じ、という代表的な作品性を感じる
これが85-6年の作品だってことにけっこう衝撃を受ける作品
もの派1000%すぎる
68年に出現してせいぜい70年代前半までが全盛期のもの派の影響を、86年にここまで原理的に受け継いでるのはいい意味でも悪い意味でもすごい
タイトルの「風化儀式Ⅴ-相関体」ってワードセンスももの派成分濃すぎでビビる
86年にみんなこれ最高!と思ってたとはとても思えないが・・・
というわけで館内へ
建物がやべえ!
いや、よくわかんねえんだけど、なんかいい石が使われてそう!って感じがビンビンに来る(※ぐぐったら讃岐の由良石ってのを使ってるらしい
マジで建物はロンドンの美術館にもぜんぜん勝ってる
なんかもの派、っていうか李禹煥が言いたかったことってこういうことなんだろうな、ってのをこの建物歩いてると感じるすっね
天地耕作
これが本編なのだが、あんまり写真がないので書くことは少ないが、要する「天地耕作」とは、特定の地域の特定の人物がひっそりやってた美術プロジェクトであり、いま風にいえば「コレクティブ」ってことである
けっこうおもろいことやってても、地元の美術館の人とかが拾ってかないとそのまま跡形もなく消えてしまうもので、今回はたまたま県美の人が注目してて研究してた結果こういう展示ができる、ちゅうものらしい
たいていろくに注目されずに消えてしまうのでかなりのファインプレーといえるし、当時取材してちゃんと映像記録残してた地元のテレビ局の活躍も光る
裏山の野外展示だけ写真とれたのでざっと載せとく
川俣正とか、土で建物つくってた女性の作家(名前忘れた)とかに通じるところもあるし、ランドアート的なものの発展にも見える
まあなんていうか単純にみてておもろいし、秘密基地的なロマンがある
静岡の現代美術と1980年展
という感じで天地耕作もよかったわけだが、その後みた地元にフォーカスしたコーナーもまたよかった
中でもグループ幻蝕をまとまった形で見れるのは感激した
この人たちがどういう人なのかは以下を参照
1966~71年にかけて静岡を拠点に活動した前衛美術家のグループ
飯田昭二、小池一誠、鈴木慶則、丹羽勝次、前田守一らが評論家の石子順造の理論に影響を受けながら活動を展開
「見ること」を問うトリッキーな作品から、自然物を提示した「もの派」風の作品まで幅広い傾向
68年には中原祐介と石子順造が企画した「トリックス・アンド・ヴィジョン」(東京画廊、村松画廊)に幻触の作家たちが多く参加
日本現代美術史的に重要なのは最後で、68年の「トリックス・アンド・ヴィジョン」にこのグループの多くの作家が参加してる点だ
68年というと、関根伸夫の作品をきっかけとして「もの派」につながる論文を李禹煥が書いた年で、つまり「もの派」ができた年でもある
で、そのもの派の思想に通じる作家として李禹煥が対談したり名前を挙げたりした作家の多くは中心的な作家が「トリックス・アンド・ヴィジョン」に出品してた作家(※「多く」は完全に嘘なんで訂正。要は関根伸夫と高松次郎である)であり、そのせいで「何がもの派だ! トリックアートじゃねえか!」説(by主に彦坂尚嘉)がうまれる原因となる
つまり見方によっては、「グループ幻触→もの派」っていう系譜を想定できるわけで、となるとこのグループの存在は無視できない
尚、以下の文献があるらしいが自分はまだ読んでねえんだなこれが
また以下の展示記事もすげえ参考になる
グループ幻触が他のローカルな美術運動とちがうのは、①中央で活躍してる石子順三がいた ②そもそも東京から近い っていう中央とのアクセスのよさで、だからこそもの派の成立に絡むような立ち位置になったんじゃねえかなという気もする
中心的メンバーだった鈴木の作品
かなりわかりやすいトリック作品だが、絵画内でいろいろやった先駆者マグリットに対し、もう一段メタ的なひっくり返しをかましている
結成メンバーのひとりである丹羽の作品
反芸術の嵐を乗り越えた68年って時代を考えると、先進性と作品性を両立させてる落ち着いた作品に見える
フックがない、作品
キャプションによると「反絵画」を志向した作品で、画材は使わずラッカーとかでつくり、遠近法に注目させることで絵画という制度自体への批判としているらしい
写真だとなんだかわからんけど中に鏡があってみる方向によって中身が違って見えるやつである
後に高松次郎の作品とかにつながっていきそうな極端な遠近法の作品
絵画とか平面作品への制度的(それを成立させてる暗黙のルール)批判となるとやっぱ遠近法、一点透視図法が血祭りになる
とまあこんな感じで、幻触の作品をまとめてみれるのは本当にすばらしい
どっかで見た絵だなと思ったら中村宏でびっくり
静岡の出身だったんだな
他には辰野登恵子もあって、辰野も静岡なの? と思ったら違った(←長野
単に80年代の作家として登場していた模様
ソル・ルウィットみたいなシステム絵画的な作品がよく取り上げられる作家だが、具体とか、中西夏之とかを思い出す感じの作品だった
だいたいこんな感じで、他にはミニチュアの写真をとってそれを写真製版でシルクスクリーン版画にした田中孝の作品が興味深かったりしたが、この田中の手法は最近も絵画でほぼおんなじことしてる作家を見た気がしたりして、改めてそれをやる意味は?という気持ちになった
第77回 日本アンデパンダン展 @国立新美術館
まだ続いてる方の(東京の)アンパン
もう1個の読売アンデパンダンはちょうど60年前になくなってるのでまあよくぞ続いてるもんだ
しかし美術史に出てくる「アンパン」といえば読売アンデパンダンの方なわけで、それはなんでかっていうと(先にはじまってた)日本アンパンの方は政治色が強すぎて敬遠されていったという事情がある
第2回日本アンデパンダン展(1948年)の時点でスターリン以後の「社会主義リアリズム」にならい(西洋の)「頽廃文化反対」を掲げているので、当時まだパリ画壇にあこがれてた日本の画家にはかなり抵抗感あったんではないかと思う
というか、「頽廃文化反対、美術の自由の擁護、民主民族美術の建設」って共存可能なのかこれ?
なんでいまも続いてる日本アンデパンダンもそういう傾向は残っているが、もちろんそういう傾向の作品だけなわけではない(アンパンなので何でもいける
現場で見てびびった作品
これ
なにがなんだかよくわからんと思うけど、寄ってみると
ぜんぶ同じ様式で描かれた車の正面図で埋め尽くされてる作品である
これが日本の情景と言われればそうなのかもしれんと思わされる
こいつはまいった
こんだけノーガードで表現できる人ってどんだけいるん?って話だ
ひねくれたところがないのもすごい
題材が題材だけに引きの写真だけにしとくが、現場でみてすげえなと思ったのは事実なので正直に書いておきたい
おわりに
という感じでざっくり書いてきたが、ギャラリー16の話については別途また記事にしたいと思う
日本アンパンの時に一緒にみた白日会で、以前に日展でもみた作家の作品があって、ちょっとうれしかったこともメモしておく
この作家のこの作品は、表情がよいし、なんかしらんけど漫画のチェンソーマン的時代精神を期せずして表現してると思う
なんでパンジーなのか、いつか聞いてみたい