街を学校にすること。〜 VUCAへの挑戦 〜
VUCA(ブーカ)への挑戦
関東も梅雨が明け、入道雲が映える本格的な夏がやってきた。
梅雨が長かったせいか、空を眺めると目が痛い。でもそんな痛さも心地よく感じられる。
世の中が落ち着かず、連日暗いニュース・暗い空に囲まれていては、いい発想も浮かばなくなってしまいそうだ。
こんな晴れた日には、本と珈琲を鞄につめて、自転車に乗って木陰を探しに出かけよう。
この夏の"読書"の仕方に必要不可欠な"最適な空間探し"と本や自然、人から学ぶ"新しい発想"に出会う小旅に出かけよう。
今は難しいことはしない。今だからこそ、身近にあるいいものとの向き合い方に時間を掛けてみようと思う。
「人・本・旅で過ごす。」それが、今年の夏の行動になればいいな。
考えたいこと、やりたいことが多すぎて体現できる残りの人生を惜しまず、楽しめるようにのんびり過ごしたい。
そんな矛盾だらけの感情に支配されている脳に、本は安らぎと発想を与えてくれる。
考えることから目を背けるのではなく、"考える質"をあげるということ。(*前記載)
今、頭の大半を占める思考の要素に最も近く、いずれ求めたい"教育の本質"にとどかせる為にも"VUCA"を自分なりに解くことにした。
VUCA ワールドとは、 元々は軍事用語であるが、Volatility, Uncertainty, Complexity, Ambiguity の 4 つの単語の頭文字か ら取ったもの。 つまり、不安定で変化が激しく(Volatility)、 先が読めず不確実性が高い(Uncertainty)、かつ複雑で (Complexity) 曖昧模糊とした(Ambiguity) 世の中、ということで ある。
今回は、Volatility(不安定な変化)の要素になるであろう[society5.0の体現がもたらす不確定要素と生活基準の変化]について思考し、自分なりの解釈を見出せたらいい。
これが書けたら『アノニム』著)原田マハを読みに行こう。
Volatility
不安定が起きる原因は明確な気がする。答えやゴール(学校で言えば目標のような)を用意してしまうからだ。
一見あった方が良さそうな答えやゴールというもの。
これがあるが故に頑張れる。そんな経験はもちろんたくさんしてきた。
でも、それがあるが故に生まれてくる"不確定要素"も同時に多い。
極論「学校がなければ不登校も、いじめもない。」
そう。場がなければ起きないこともある。
もちろん、なければないで新しい課題が生まれてくることは明確である。
だが、極論として思考してみて"学校"というスペースがなくなり、社会の在り方に「こうでなければならない。」といった答えや固定概念をなくしてみたとすると、誹謗中傷も意味をなさなくなるし、誰もが自分の中で満足することができる。
他者と比べるから生まれる軋轢も、僻みも、嫉妬もなくなる。
同時に切磋琢磨という四字熟語も無くなってしまうが。
SNSで巻き起こる誹謗中傷の大半は、民衆の大定義から起こることが多い。
いつの間にか出来上がっている「これが答えだ。」という定義から。
答えやゴールというのは"常識"という言葉にも置き換えられて、そこからはみ出すのは異質と捉えれることと似ている。
人間という生き物は、本来もっと高尚なもので、そんな一つの答えや常識に収まるものではないはずである。
だが、人は強くないから"仲間を求め、共感を抱き安心する。"
この行為自体は決して悪くない。むしろもっとも人間らしい。
しかし、これに必要以上な固執が加わると、それは暴力に変化していく。
自分と同じ。というコミュニティーはとても安心感がある。
そこに外的要素を入れられる多様性があれば問題ないが、排除してしまったり、否定してしまったりすると、いつの間には「自分さえよければ。」となってしまう。
不安定な世の中を生きることは、みんな不安になる。
そんな中、不安をなくせる共感性が目の前にあれば、誰だってすがりたくなるのは当然だと思う。
授業の展開の仕方に「オープン・エンド」という考え方がある。
先日、横浜の大学の先生とお話しする機会があり、その理論について語る中で「先生の在り方」に行き着いた。
考えは同じで、「teachingからcoachingに変えたいですね。teacherじゃなくて、coachって呼ばれたい笑」I時間しかなかったので、また会ったらもっと深く話したいな。
オープンエンドの捉え方自体にも正解はないが、一つに"正解や答えを提示しない"、結果主義ではなく、過程をいかにして学べるかにかかっている授業展開である。
先生が"教えすぎない。"という絶妙にわくわくする、もっとも不安定な中での学びをいかにして楽しめるかにすべてがかかっている。
不安定をいかにして楽しめるか。
ここにVolatilityを突き詰める鍵があると思っている。
何かができたらいい!という授業展開は、取り組みも明確で、知識獲得の最短距離をいくので人気がある。
でも、Volatilityな世の中では、もっとも力を発揮しづらい条件も含まれてしまっている。
知識は、パズルのピースとして多い方がいいとは思う。
しかし、与え得られ学びだけでは、この先の世の中には利用しづらく、露頭に迷ってしまうかもしれない。
だからこそ、あえて不安定な状況を作り出し、「答えやゴールを目指す」ではなく、「悩むことを楽しめる経験」を積むことが大切だと思っている。
要は、Volatility(不安定な変化)を楽しめるかどうか、ということなのかな。と、一先ずは自分の中で解釈してみることにした。
学校現場に流れ込んできてたICT、今それと向き合い、子どもたちとあーでもない、こーでもないと共に見えない授業を創ることが楽しくて仕方ない。
去年、卒業した子にプログラミンが上手な子がいたので、先日メールをした。そして学校に来てもらった。
駐車場で2人iPadに目を向けている姿は、異質だっただろう。でも、その異質さを2人で夢中に楽しめた。
その子に「次回はチャットで。」と言われ、宿題も出してもらった。
中学生に教わる教員。この不安定さを楽しめるかどうかは、本当に大切だと思っている。
その子に認めてもらえるよう、励みたい。
Iotと共存し、より豊かに生活を送るためには"ちょうどいい具合を見出す"必要がある。
なんでもまずはやってみる。そして自分なりに楽しみ、それを他者と共有し、みんなでわいわいしていく。
それができれば、世の中の不安定が当たり前になり、答えのいらない世界が生まれるかもしれない。
「街を学校にすること」に全然話が届かないですが、そろそろ小旅に出かけますので、次回記載致します。
今回もお読みいただき、ありがとうございます。
本当に遠回りですが、20年先がよくなっていくようなblogに成長していきたいと思っています。
『家庭 × 教育 × 社会 × 環境 × 熱意 + VUCA・SDGs・STEAM = 答えのない平和な世界 』
人と人・人と環境を紡ぐblogを目指して。
「大切なことを、大切にできる人」が増えていけば、世界が抱える課題は、あっという間に希望へと変わっていく気がします。
今度ともご愛読の程、よろしくお願い致します。
@mucchuart