見出し画像

多様なものの見方に関する考察

 多様なものの見方をしよう、個性や異なる意見を大切にしよう、そういった掛け声は、現代日本社会では普遍的価値観として肯定されています。これは所謂考える力の問題であったり教育理念の構築であったり、そういった教育上の要素に絡んでくるものでもあります。しかし、具体的にどういう制度、どういう考え方が、多様な物の見方を育てるのか、あるいは多様なものの見方の結果なのか、そういった技術的要素についての積み上げは社会全体として、今後も継続的に発展させる必要がある様にも感じられます。本稿では、教育や教養とも大きく関係し、今後の課題と考えられる多様な物の見方の技術的側面について、ひとつの私見を述べます。

多様性に付随する対立軸そのものを取り扱うことについて

 多様性を大切にしようという考えは、おそらく多くの人々から賛同を得られるであろう一方、各論については意外に合意を取ることが困難といえます。多様性の肯定に基づいて遠慮なく主張したお互いの意見が重なっていたり対立したりする場合には、単純に折半で済ませられれば穏当に解決しますが、そういう場合だけではないでしょう。
 例えば、夫婦別姓の導入や現在使用が禁止されている特定の薬物の使用解禁等、導入や解禁をするかしないかしか選択肢は無く、小さな地域での試行から拡大したり、強い制限を設定して後に緩和したりといった緩衝政策はあり得るにしても、導入に反対の人の立場からすれば、実施してしまえば10%も100%も差はないので、故に絶対反対になることもしばしばあることです。
 本稿は、そういった具体的問題等を立論して解決策を論じるものにはなりません。
  一方、科学であるとか学術であるとかの観点では、多様性の許容をベースとして論を立てることは、ある意味でその創造性における基本とも言えます。なぜなら、前提の段階での異なる複数の意見の存在を認めなければ、理論的なものごとの構築が正しく行われるのに非常に時間がかかり、結果的に非効率的にしか概念の確立が進捗しなくなると思われるからです。アリストテレスの科学哲学的権威を宗教的権威とからめて異論排除が大きな流れとなっていた期間、科学の表立った進捗と裏側での発展とが乖離せざるを得なかった史実がそのよい例です。
 多様性を許容し、ひとつのテーマに関する多くの論が立ち、そこから議論によって取捨選択や内容の修正が行われることは、一見とりまとめに時間を要する無駄な段階の様にも見えますが、言わば何度も最初からやり直す様なリスクを回避し、結果的に議論全体の進捗を効率化する効果があると、筆者は考えます。従って、民主的であるとか正しい行いであるといった倫理的な理由の他、功利的視点からでも、多様性を許容する考え方を取ることは(場合によっては、各論反対の立場の人にとっても)単純に利益が大きいことであるわけです。
 ひとつの仮説としてとりあげてみたいのは、そうした多様性に関連した困難が起こった際に登場する、意見の表明時の対立軸それ自体についての取り扱い方の変更、という視点です。 

ここから先は

4,167字
この記事のみ ¥ 200
期間限定!PayPayで支払うと抽選でお得

サポート頂ければ大変ありがたく、今後の記事作成の励みとさせて頂きます。