お金を拾った話。
残業終わりに地元駅に着いて下を向いて歩いていると、足元で何かが光った。
一瞬の事だったけれども、あの光った物の形が通り過ぎた私の脳裏で反芻されて、気づいた。
50円玉だ!!!
思わず振り返って、他の人がまばらに通り過ぎていく中一歩戻って、すっと自然な動きで拾い上げる。
そして手の中にしまい、コートのポケットに手を突っ込みすたすたとその場を歩き去る。
ちょっとして改めて見ると、やはり50円玉。確信がなければ拾ったりしないが、これでもし違ったらかなり恥ずかしい。誰も知らない中、1人恥ずかしい思いをするのはちょっとごめんだ。
それにしても、子供の頃はよく1円玉や10円玉を道端で見つけたりしたものたが、このキャッシュレスが進んでいる中、最近はめっきり道端に忘れ去られた硬貨を見なくなった。
お金を拾うのは、なんとなく意地汚い感じがして見かけてもそのまま素通りする人も多いと思う。そもそも気づかない人が多いのかもしれない。
拾ってる人を見かけたら、嫌な顔をする人がいるかもしれない。
そんな事を気にしていたら、せっかく見つけた50円玉を拾う事なんて出来ないけども。
小さい頃、おばあちゃん子だった私に、祖母はお金の大切さを事あるごとに話していた。
お金がいくら手元にあっても1円が足りなくて欲しい物が買えないかもしれない。109円あっても1円足りなかったらバスには乗れないでしょう?
そう言って、一緒にバスに乗って買い物に行く前にもお金の大切さを教えてくれた。
そう言う祖母は、自分の事よりも他人にお金を使う人で、自分は若い時に楽しんだから若い人に楽しんでもらいたいと、自分の服は何年も大切に着回ししているのに、他人への贈り物にはお金を惜しまなかった。
そんな祖母の教えがあってか、道端に忘れ去られた硬貨を見捨てる行為は、私にとって、気づいていながらお金を蔑ろにしたようなもの。
不慮の事故で、道端に放られ、持ち主に拾い集めそびられてしまった50円玉。
奇跡的に私の手の中に収まっている50円玉。
駅から歩いて家路につきながら、何に使おうかを考える。
せっかく拾ったけども、これを世の中のために役立てた方が良いかもしれない。コンビニに寄って、募金箱に入れようか。
それとも貯金箱に入れようか。
それとも何か残業した自分へのご褒美に美味しいものを買おうか。。
決まらないまま、コンビニの前に着いて、気づいた。
今夜の夕飯分の納豆が冷蔵庫にない事に思い至った。昨日食べた分でストックは最後だったのだ。
これも何かの縁だと、コンビニの中に入り、納豆を手にしてレジに並んでいると、レジ横のフライドチキンがとても美味しそう。
少し悩んだ挙句、納豆と一緒にフライドチキンも買った。
こうしてめでたく忘れ去られた50円玉は私の夕飯の一部となり、経済を少しだけ回した。
※これはフィクションです。(たぶん)
※お金は大切に。もし道端で見つけたら拾ってあげてください。あなたの目にそれが映ったのなら、きっと硬貨が拾って使ってほしいと言ってるのだと思います。有難く使ってあげましょう。