映画『僕のお日さま』、雪が解ける前と後で

(大雑把な展開と、ラストシーンに関するネタバレが含まれています)

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 学生時代から黒板と離れている席の方が落ち着く性分で、そのクセが抜けず映画館でも後方の座席を選んでしまいがちなのだが、劇場によってはスクリーンまでの距離が映画への没入を妨げることが少なくない。だから本作の上映が開始された時も、最後列から2列目の座席に腰掛けながら「しまった」と思ったが、ほどなく、私の目からスクリーンまでの距離に加えてもう一つ、別のレイヤーの距離があることに気付いた。

 なんだかずっと、カメラが遠い。役者の表情の細やかさから思いを読み取ろうとも、微妙な距離感がそれを許してくれなくて、もどかしい。そして、だからこそ声色や所作に漏れ出す喜びや優しさが目映く、失望や侮蔑が暗く重い。

 『僕のお日さま』は、北海道の田舎町を舞台に、吃音症の少年・タクヤ、フィギュアスケートに打ち込む少女・さくら、そして彼女のコーチである荒川という三人の関係性の変化を描く。タクヤが所属する少年野球チームは、雪が積もる冬の間、「春までの繋ぎ」としてアイスホッケーの練習に励む。ある日、タクヤはスケートリンクにてさくらの演技に見惚れ、ホッケー靴で不器用なステップを練習する。その様子を目に留めた荒川は、タクヤにスケート靴を貸し与え、閉場後のリンクでマンツーマン指導を始める。やがてタクヤとさくらは、荒川の提案でアイスダンスのペアを結成することとなる。

 レンズから被写体までの距離と連動するように、彼ら自身もまた様々な距離に隔たれている。タクヤの場合は吃音のため。荒川の場合は自身の性的指向(に対する引け目や周囲からの無理解)のため。それぞれの理由でコミュニケーションが阻害され、しかし軽やかにその距離を乗り越えていく輝かしい物語を、終盤にかけて大きく屈折させてしまうのは、さくらという「普通」の思春期の少女が持つ「普通」な自意識と「普通」の葛藤だ。その「普通」を「奇妙(クィア)じゃない」と書き換えてよいものか、この文章を書き進めながらずっと逡巡している。さくらは、ある時はサイドミラーによって、ある時はリンクサイドの更衣室の窓によって、ある時はフロントガラスによって、切り取られた荒川の姿をまなざす。

 三人の間のあらゆる壁を取り去ってくれたのが少年少女のイノセンスなら、彼らを再び隔てさせたのもまたイノセンスそのものだ。鑑賞者の私は荒川のクィアネスが至って自然に映画に組み込まれ、別段の説明が求められないことを望むが、物語が、あるいは物語の形をした現実が、それを強く拒む。どこまでもピュアで開放的だったはずの関係はある地点から大きく歪んでしまうが、それでも変わらず、さくらの氷上での演技や、北の大地の景観は美しい。その美しさが苦しい。さくらの態度は明らかに暴力的でありながら、凛としていて清らかでもある。それこそが暴力的だ。暴力性のみを描かないことが、かえって暴力的だ。

 タクヤとさくらは、この映画が終わった直後に交わす言葉によって、再び隔たりを超えることができただろうか。正解はないけれど、そう上手くはいかないだろうなと思う。タクヤはダボダボの制服を着させられたものとして。さくらはピンクの鞄を持たされたものとして。彼らは、剥き出しの何かを覆う膜に護られたまま、春を迎えたように見えるから。しかし、90分に凝縮されたある年の冬の出来事は、いつか彼らの未来で温かく疼くのではないかと信じたい。そうして荒川が負った傷を三人で分かち合う時、そこで視線や声が交わらなくとも、彼らの間の距離は本当になくなる。

 さて私は、映画館を出て乗り込んだ電車の中で、いま抱いている感想を、霧散するまでに間に合わせんとばかりに慌てて文字に起こしている。しかし、このテキストが映画に関して語るべき重大な何かを取りこぼしていたとしても、それが完全に消滅することはないだろう。手を差し伸べ合う姿に触れ胸に灯った温かさも、破綻した関係を傍観する居心地の悪さも。だって、雪が解けてしまったとしても、解ける前と解けた後は決して同じ季節ではないのだ。その事実を希望と呼ぶことこそが、とてもハッピーエンドとは言えないこの物語を祝福する手段だと思う。

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