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花火

今年の8月、久しぶりに花火をした。

その前に花火をした事は何年前の事だか思い出すことが出来ないけれど、たぶん5年くらい前だと思う。なぜ5年くらい前だと思ったのかといえば、義弟夫妻と夫と、小学校に上る前の姪が楽しそうに花火をする姿と、それをスマホに収める事に夢中な義母の姿を、今は亡き義祖母と共に眺めた記憶があるからだ。
コロナ禍に差し掛かったくらいの頃から介護施設で過ごし、その中で入退院を繰り返し、1月に天寿を全うした義祖母が健在であることを振り返ると恐らくは5年くらい前なのだ。

8月に花火をしたのは、義祖母の新盆の法要のため義理の弟家族がやって来たからだ。その日の夜に、姪たちと花火をした。
夫と私が小さな子供が火を扱っても困らなそうな環境を整えるために車庫に電灯やバケツ等を用意している間に、彼女たちは花火を「大中小」と仕分けをし、その中には私専用の花火もあった。
「これは◯◯ちゃんの!」と自信満々に花火を差し出す姪は天使の姿さえしていた。

さて、「花火」の話でしたね。
こんな感じなので、「花火」というとそれだけで姪たちと優しかった義祖母を思い出す。と言うよりか、今の私が思い出せる範囲で「花火」に関するそれ以外の記憶が無い。

先端に火をつけた瞬間の彩り、その美しい姿に見惚れたその瞬間に黒い灰に朽ち果てる。美しい姿を見たくて、次から次へと手を伸ばす。しかし、限りがある。
最後へと近づく花火を手にするたびに「あぁ、終わってしまう」という焦燥感と「あぁ、ようやく終われる」という安心感が入り交じる。それは、今この瞬間を忘れたくない自分と、無常の現実を受け入れなければならない事実が相反していて、とても苦しい。

あれほど楽しかった花火を終えても何も残念そうにせず、けれど充実したような表情の姪たちと、その世話をしているようで明日の事を考えて行動する義弟夫妻を横目に、私は自身の明日を憂う。

姪たちの明日は、未来は、たぶん、「明日がある」だけで輝かしいのだ。
「明日は、どんな楽しい事をしよう」という発想は私にはなくて、「明日は、コレをしなければ」という業務に囚われていて、それがどうにも息苦しい。
息苦しいから、姪たちと遊ぶ時は夢中に姪たちと遊ぶことに注力する。そうすれば、無心でいられる。私が無心で遊んでいれば、姪たちは喜んで私と遊んでくれる。

それは、いつまでそうしていられるのだろう。

姪に会う度、その成長に驚かされる。
先日まで人語を発しなかった個体と確固たる意思表示が出来ることに、そのレベルが上がっていくことに。

1日24時間。
その限られた時間の中で、沢山のものを吸収し急速に成長していく姪たちは、これからもきっと、驚くべきスピードで成長していくのだ。
その時、私はきっと、今に留まったままなのだろうと思うと居た堪れない気持ちになるが、抗ったところで、どうして良いのか分からない。

受け入れられないから抗うのは、ただのわがままだ。

あぁ、花火の話でしたね。
一瞬で朽ち果てる光を、永遠のもののように見つめる姪たちと、その次の瞬間、灰になる花火に、何となくだけれども、姪たちの未来と自分の今を重ねたりして、そんな不毛で愚かな思いを受け入れてくれた義祖母はもういないという現実が、寂しくはあるのだが、現実として眼の前にある。

私は貴女を「おばあちゃん」と呼んだことはなく、貴女も私をどこか他人だと思っていたに違いないけれど、私は貴女の本当の孫になりたかった。

あぁ、花火の話でしたね。
義祖母の新盆の法要のためやってきた義弟一家と花火をした。

最後の花火が近づくにつれ「◯◯ちゃん」と声をかけてくれて花火に誘ってくれる天使のような姪のことを「こんなに可愛いものはない」と言った義祖母を思い出す。
しかし、私にとって「花火」の記憶は、可愛らしくて将来に満ち溢れた姪たちなのだ。

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