時刻表に乗る~大阪ー名古屋遠回りの旅~vol.1
1.特急くろしお号の旅
令和6年(2024年)6月の平日7時30分、私は大阪駅地下に完成したうめきた新駅のホームに立っていた。
今日はこれから、名古屋に向かうのだが、少し思うところがあって、思いっきり遠回りをして向かいたいと思う。
大阪から名古屋に鉄道で向かうとすれば、一番早いのはやはり新幹線であろう。快適さを求めるならば、近鉄の名阪特急もある。
私が今日これから乗車しようとしているルートは、紀伊半島をぐるりと紀勢本線経由で一周するルートである。
このルートには昭和40年(1965年)3月のダイヤ改正から、天王寺と名古屋を結ぶという壮大な列車を国鉄は走らせていた。
その名も特急くろしお号という。
名阪間を移動するという目的で利用した客は少なかったかもしれないが、かつての紀伊半島は、国鉄がこの時期に特急として設定するということは、観光需要が相当なものであったのであろう。
天王寺と名古屋を結ぶ列車は昭和53年(1978年)のダイヤ改正まで走り続けた。
その後は、大阪と熊野観光の中心都市新宮を結ぶルートに短縮され、現在に至っている。
今日は、往時の大特急をしのぶため、そのルートをたどっていきたいと思っている。
大阪から新宮までは、特急くろしお号。新宮から名古屋まではJR東海の特急南紀号に乗車する予定である。
早速列車に乗り込み、指定された座席に座ると、列車はすぐに動きだした。
乗客は4.50%程度で、熊野観光に向かうと思われる初老の夫婦や、女性だけのグループなどが乗車している。
地下を抜けると、大阪環状線の高架下の踏切を渡り、福島駅の脇をスロープで登り、大阪環状線に並行して走る。
大阪は、安土桃山時代に豊臣秀吉がその基礎を築いた街である。一説によると、本能寺で暗殺された織田信長も大阪の地には目を付けており、安土城の次は大阪に城を築く予定であったとも言われている。
現在の大阪城天守閣は復元されたものである。
豊臣秀吉が築いた大阪城は大阪夏の陣で焼失してしまったが、徳川期に作られた白漆喰ではなく、黒漆塗の外観だったと言われている。
戦国時代この地には、石山本願寺が堀を巡らせるなど寺院を城塞化していた。大阪城はその跡地に築かれたものである。
天正11年(1583年)から築城を開始し、2年後の天正13年(1585年)にはほぼ完成させた。
大阪夏の陣のあと、2代将軍徳川秀忠により、大阪城は幕府直轄地となり、豊臣時代の大阪城の上に10m以上の土盛りをし、新たな大阪城を築いた。
徳川期の天守も落雷で失われてしまったが、昭和6年(1931年)に徳川時代の天守台の上に、豊臣氏時代をイメージした天守が再現されたのが現在の大阪城の姿である。
天王寺を出発すると、すぐ阪和線への連絡線路をゆっくりと登る。無事阪和線の高架線路に合流すると列車はグイグイとスピードを上げ始める。
新しいサッカースタジアムのできた長居運動公園の脇を通過し、近郊の駅をどんどん通過していく。
三国ヶ丘を過ぎると右手に仁徳天皇陵古墳の杜が現れる。
世界遺産百舌鳥古墳群の中の一つで、現存している古墳だけでも44基もあるという。
中国の歴史書「宋書」には、5世紀頃の倭(日本)に5代にわたって有力な王(「讃」・「珍」・「済」・「興」・「武」)が現れ、中国に貢物を献上したという記録があり、倭の王は、当時、日本各地の地方首長を束ねていた首長連合の盟主で、大きな権力を有していたと考えられているそう。百舌鳥古墳群は、古市古墳群(羽曳野市、藤井寺市)とともに、倭の五王に関わる遺産と考えられており、日本の古代の国家形成過程を物語る重要な遺産だということだ。
和泉鳥取を通過すると、阪和線は山の中に分け入る。
和泉山脈を雄ノ山トンネルで抜けた辺りは、中央構造線の活断層(根来断層)である。日本列島を横断する断層で、列島の傷跡のように見える。
和泉山脈を越えて、和歌山平野を山際に沿って軽快に列車は走っていく。
紀の川を大きな鉄橋で渡るといよいよ和歌山である。
ここからはいよいよ紀勢本線である。
阪和線を怒涛のように一気に駆け抜け、飲む暇のなかったホットコーヒーを飲み干す。
次回へつづく
〔表記の仕方について〕
※時刻表や地図帳に基づく事実については、グレーの引用四角で囲って表記した。
※それ以外の内容については、原則的にフィクションであるが、街の紹介や、参考文献に基づく歴史の紹介は事実に基づくものである。
〔参考文献〕
・JR時刻表2024 7月号 (株)交通新聞社
・全国鉄道地図帳 昭文社
・ビジュアルワイド図解 日本の城・合戦 西東社
【今回のマップ】
【今回のダイヤ】
今回の乗車列車は特急くろしお1号(51M)です。
3か所でおなじくろしお号とすれ違いをしているのがわかります。