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ついに「捨てる喜び」を覚えてしまった

「使わない」ことで物を殺すのをやめた

最近になって、物を捨てる喜びを覚えた。

「捨てる喜び」というと、欲望のままに後先を考えずに、生活に必要なものまで捨ててしまうようなイメージを持ちがちだ。
たしかに、「捨てる」という行動の結果、がらんどうの部屋に住む「ミニマリスト」なる人たちの部屋の様子は衝撃的で印象的である。
私が覚えた「捨てる」喜びはこういう極端なものではなくて、おそらくミニマリストの方々から見たら鼻で笑っちゃうような、そんな些細な喜びだ。

目が気に入ったら買ってしまう性質なので、私の部屋はいつも雑多だ。
オタクにも片足を突っ込んでいるので、好きなアニメのグッズなどもたくさんある。
これらのグッズは購入するとほとんど「保存用」で、時折取り出して見ては、ムフフと言って仕舞われるだけの役割を担っていた。
とてもとても勿体なくて、使うなんて考えられなかった。
部屋が汚い(散らかっているけどメッシーではない!と言い張っていた)とたいへんたいへん自覚していた私はあるとき一通りの片付けあるいはミニマリストの書いた「丁寧な暮らし」を扱った本を読んだのだった。
物は捨てたくないけど、部屋は片付けたいというどうしようもなく矛盾した気持ちが生み出した衝動だった。

それらを読みながらふと思ったのは、自分が死んだあとにこれらのグッズはどうなってしまうのかということだった。
いつも、入手の難しいグッズを手に入れたときに、私の頭の中では思慮深げな顔をした中島誠之助みたいなおじさんが「これはとても貴重なものですね……だけど、」と重々しく口を開く姿だった。
小さいころに見た「なんでも鑑定団」でどうしても忘れられない回がある。出品された伊万里焼の大皿はカラフルで幼い目から見ても美しく、素晴らしいものだった。鑑定結果も申し分ない値段だったが、鑑定にあたった中島誠之助は「この皿には『箸擦れ』という使用痕がある。これがなければもっと高い値がついた」と重々しく言った。聞けば依頼人、夏場の冷やし中華を食べるのに、そのお宝を使っているという。
そのシーンをみた瞬間から、おそらく私の中で「使用感=悪」という公式が出来上がってしまったのだろう。
しかし、だ。
いくら貴重なグッズだったからといって、価値を保つために使わずに取っておくという行動は、すなわち、それを売ってしまうことが大前提にある。
もちろん、私の中にグッズを売ろうという意思は微塵も存在していない。
では、誰がこれらを売るのだろうか?それは、おそらく私が死んだあと残される家族の担う役割だろう。
家族がべらぼうに残されたグッズたちを前に途方に暮れるさまが目に浮かんだ。
価値があるかはわからない。ただ、自分が価値があると信じたいものたち。
正しいルートで処分することがかなわなければ、また、私自身がその価値を見誤っていれば(かなりの確率でこちらが濃厚)、家族にとってはただのガラクタと成り果ててしまう。
そんな、当たり前のことに思い至ると、改めて気に入って手に入れたものたちとの時間を大切にしたいと考えるようになった。
いくら気に入って入手したとしても、使ってもらえない物というのは死んでいるのと同じだ。
出来れば、物としての人生を全うして、このものに出会えてよかったなと思えるほうが有意義なのではないか。
それから、物を買ってくるとすぐに封を切って使い始めるようになった。逆にいうと、使わないものは買わないようになった。
十分に使用したと思った段階で気持ちを込めて「ありがとう」と伝え処分する。(これはコンマリ式)
そんなこんなで、使って捨てるという喜びを最近覚えたのだった。

「他人への言葉」は自分の鏡である

さて、私の家族は世の人と比べると綺麗好きで、休みの日も半分の時間は家中の掃除に充てるというような、そんな人間だ。
そんな状況とは裏腹に「捨てられない」人間でもある。
同居し始めてすぐは、散らかしてばっかりの私に対して「片付けて」(これは真っ当な意見)、「物を捨てて」(これは見当違い!)などと口を酸っぱくして言ってきたものだった。
その時はまだ物を捨てること、そして使うことに対して漠然とした不安感があったため、ほとんど聞く耳を持たなかった。家族の意見というのが、私室に対してのものだったことも抵抗を大きくしたと思っている。
そんな風に私に対して意見をする一方で、家族もまた「捨てられない」人間である。
いつ買ったかわからないようなヨレヨレの服、結婚式の引き出物や記念品でもらった食器は箱に入ったまま山積み、飲めるかどうかすらわからない趣味のカクテルリキュールは放っておけば何年も触りもせず置いてある状況。それがちょっとしたバーが営業できちゃうくらいの量ある。
これはまさしく、「物を捨てる」というマインドにおいては似た者同士が一緒に住んでいる状況である。
これらの惨状を見るたびに、私も自分のことは棚上げして「それどうするの?」とか「そろそろ買い替えれば?」などと口を出していた。口出ししてしまうマインドも似た者同士である。

他人に対して何かを言ってやろうという気持ちになるときには、だいたい自分に問題がある時なのだ。
「それどうするの?」と家族に言っているときにはきまって私の部屋はぐちゃぐちゃで、「そろそろ買い替えれば?」と言っている瞬間には自分が買い替えたいと思っているものが頭によぎっている。
片付けに限らず、他人に話す言葉というのは、自分の鏡である。

生活を新陳代謝する

そんなこんなで、いらないものを整理するようになったわたしは積極的に物を捨てるようになった。
たとえば、着もしない服や使っていない化粧品、ちょっと綻びてきたなと感じたタオルや下着。
演劇通いで嵩みまくった大量のチラシとかもう履かないことはわかっているのにいつまでも靴箱に眠っている靴など……。
特に肌や体に触れるものは明らかに要らないと感じていても、捨てづらく、本当に大量に処分した。

私が目に見えていろいろなものを捨て始めると、触発されたのか家族も自分のゾーンにあるいろいろなものを捨てるようになった。
多分、もう飲むことができないだろうリキュールだったり、古びて襟のすり切れたTシャツ。金物で圧迫感を感じていたごちゃごちゃとした塊も、燃えないゴミの日にスッキリ捨ててしまった。
どれも傍から見てよくないなあ、いつまで持ってるんだろうと思っていたものばかりだった。代わりに新しくてさっぱりした新品を買ってくる。生活が小奇麗になる。
そうすると、これまで良くはないけど排除するほどではないと思っていたものが急に古びて汚く見えてくる。
物を捨てると、新しいものが入り、さらに捨てたいものが出て……。我が家でものの新陳代謝が始まった。

家にあるものを思い切って捨てるようになって一番良かったと感じるのは、今まで気づかなかったお気に入りを見つけることができたことだ。
先日、満を持して引き出物やプレゼントでもらっていた食器類の箱を開けることになった。

封を切ってもいなかった箱の中から、使い勝手のよさそうな大振りの角皿が出てきた。
後生大事にしまってあった箱からは、銅のビアタンブラーが。
普通に食器棚に置いてあったならば、お気に入りとしてヘビーユーズしていたであろう品だった。
実際に、発見したあとにはよく使うお気に入りの食器のひとつになっている。

別れはひとつの儀式だと気付く

断捨離という言葉が嫌いだった。
断って、捨てて、離れる……拒絶するだけの文字が3つボンボンボンと並んでいる。
はじめに言い始めた人には何かしらの意図があったのだろうとは思う。
なんて残酷な言葉なんだろう、と数年前までは思っていた。

一昨年に、立て続けに病気で両祖母を見送った。これまで、ほとんど親類を見送る経験のなかった身からすると衝撃的な出来事だった。
フルコースの葬儀に連続で出席したことで、一人の人間が亡くなったときに別れのためのプロセスが確立されていることを身をもって体験した。
別れはひとつの儀式なのだ、と気付いた。
どんなに大事に思っていてもいつかは必ず「すべて」との別れがやってくる。
たとえば、自分のもつ大好きな物との別れならば、「使わずに取っておいた物と自分の死を契機に突然別れてしまう」よりも「大好きな物を使いつくして自ら『ありがとう』と別れを告げる」ほうが魅力的なのではないかという気持ちも、あるいはそこから生まれたのかもしれない。

経緯はどうあれ、「捨てる喜び」を覚えた後のほうが、ずっとずっと楽しく日々を過ごせている。

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