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ゼロから「集まる」を考える、から考えた



今の文化会館がなくなって、新文化会館になるそうで、その流れの一環として企画された「ゼロから集まるを考える」ワークショップに、小グループのまとめ役として参加することになった。

ワークショップのきっかけ


文化会館に関する何かワークショップをやることになったのだけどどんなのがいいだろうという茶飲みの話題に、それならまず人はどんなところに集まりたいと感じ、どんなものを欲してるのか、なるべく多くの人に聞いたらいいんじゃないか、そしたら個々の住民が必要としていることも可視化できるし、なるほどこれは文化会館としてできるかも、これは個人のお店とか学校でやれることですね、と自然分かれることができる、そうして文化会館が主体的に選択すれば「文化会館に希望したのに実現してくれない」というクレームもないし、なんなら店をやってる僕みたいな人にとっても、あこんな手があったか!それはうちでやれそう、という具体的な官民連携の形を探れるなんておまけもあるかも。
何より、「文化会館の姿」とか言った途端に、僕らは「これは不謹慎」「こんなことは聞かれてないだろう」と勝手に想像に縛りを設け、既知のものの姿に当てはめて考えてしまう癖があるので、その壁をなるべくとっぱらった状態で色々と言える方が、思いもかけない発見に繋がりやすいんじゃ?
と提案してみたら、ほとんどそのまま採用してくれて、ワークショップが開催される運びとなった。

一回1時間ほどの話し合い(結果として、それは毎回ほとんど井戸端会議のおしゃべりのような雰囲気で、行政的な内容の議論でこんなに笑顔が満ちたものもなかなかない、という話だった)が全部で3回。4つのグループに分かれて、それぞれ自由に話は進む、3回目の終わりにみんなで輪になって、一人一人の感想や意見と、グループのまとめが共有された。

ワークショップが終わってもう二週間、あらかたどんな話になったのか僕自身忘れてしまって、しまったなぁという思いもあるけれど、だからこそ今まだ覚えてることだけでも記録に残しておこうと思います。他の3グループがどんな風に話が始まり、広がっていったのかはわからないので、僕がいたBグループの話をメインに、全体に繋げていけるだろうか。

一回目 人は目的に集まり、目的がないから集まる


一回目は、まず文化会館の中を見学し、そこから4つのグループに分かれて話し合いが始まった。1グループだいたい6〜8人でテーブルを囲む。僕らBのグループでは、どんなところに人は集まりたいと思うのか、何が必要と感じます?文化会館というワードはすっかり忘れてもらって、とにかく自由にお願いします。どんな些細な、とかくだらないかな、と思ってもそういうのも。という僕の質問から、皆さんがそのとき思ったことを話してもらった。
真っ先に上がってきたのはトイレや売店など、出先で突然必要に駆られた物事をこなせる場。これは今のコンビニがまさに担っているところだ、そう考えたら今のコンビニの形態を考えた人はなんと凄いことだろう!(ちなみに別のグループのまとめ役に、まさにそのコンビニを経営している人もいたりして、しかもその人は店の前にお客さんのためのくつろげるスペースとして椅子とテーブルを、企業側がそれを設置するよりも前に、苦労して始めていたそう。)
具体的な要求から次第に、人がそこに行きたいと思うのはどういう場だろうか、という話に移っていき、
「場を開く側が、ちゃんと目的を持ってると人は来やすいですね」
と切り口が出た。不登校のこどもたちが来れる場を開いていて、発信すると「そこなら」という人がちゃんと来てくれる。そこから、共通の趣味の人が今ならオフ会の様に集まる、など。同じ喫茶店でも、コーヒーが売りなのか、パフェが売りなのか、雰囲気が売りなのか、はたまた安さが売りだったり、客層がそれで変わる。地元にできたばかりのスタバは、他の街と違って全然ノマドワーク的雰囲気がなく、コメダのおしゃれ版みたいになってる、とか笑。そういえば、まだその現物を目にしてすらないや。
あるいは抱えている問題を紐解くきっかけを求めていたり、提供できるスキルや役割を提示することで、お互いに一人では開かれない物事を求めているのかもしれない。
確かに目的を持って人が集まるね、このワークショップもまさしく、そういう体をなしているわけで。と、まとまりそうだったところに

「学生時代とか、家で勉強してればいいのに、なぜかわざわざ人が大勢いる図書館とか、それこそスタバみたいな、いるところに行きたくなるんでしょうね」

これは、また真逆の切り口だ!
そこに集まる人は、集まって皆で何かするでもなく、ひとところにいるけれど、それぞれが勝手気ままに、自分達がしたいことに向かっていて、それでいて居心地が悪くないという不思議。
人は、人がいるところに行きたくなるという性質もありそうですね。
「安心できるからなのかも」
確かに、ただそこにいるだけで、具体的に、目に見える形で関わりがなくとも、知り合いですらない誰かが(でも二人しかいないとかだと気まずい、だからある程度気にしなくてもいい多さの人数で)そこにいてくれるだけで、安心する。

安心、不安の解消。形となる繋がり、目に見えない繋がり。

現文化会館の見学もあって、今回は1時間ほどのおしゃべりで終わり。と言っても、どのグループも8時半の終了を大幅に超えて、9時過ぎまで盛り上がり、話は尽きなかった様子。

二回目 地元の見所、そして震災

一回めの終わりに、宿題として「自分なら、どんなところに集まりたいか。逆にこんなところには行きたくないってところはあるか」考えてきてもらった。とはいえ、前提としてそのときの流れを最優先にするので、このことを話し合うことになるかはわかりません。話を始めたり、流れを生んだり乗ったりするためのオールみたいなものです、という言い方ではなかったけれど、そんな説明付きで。
初めはやっぱり具体的なところから入っていくのは、このグループ特有なのか、皆そうなのか。馴染みのたこ焼き屋さんとか、あそこのラーメン屋、ラーメンの話はどんどん別の店のラーメンの話に広がってゆく、店の話から自然景観の明媚なところや果ては心霊スポットまで飛び出てきて、みんなワイワイ。
「集まる」という話題から「集める」に偏ってき始めたところで、過疎集落から参加の方の川清掃や寄り合いの話にポン、っと移ると

「生存確認のためにみんなで集まる。結局、理由はなんでもいいんな」
「田植えや稲刈り、醤油に味噌。一人じゃできんことを、みんながみんなのとこで済ます。これも立派に集まるだよね」

集まる。
一言に集まる、と言っても、人が集まるには僕が考えていたよりもずっと大きな広がりがあったことをまざまざと思い知らされた。自分の思考の視界に壁があることはわかっても、その先にもまだ幾重も壁がある。みんなそれぞれ壁を持っている。でも、自分でその壁を壊さなくても、そこに壁がない人がその人の視界を見せてくれるだけで、壁の向こうが見えるのだ。これこそが、このワークショップの醍醐味だ。そんなことを思いながら、みんなの話に耳を傾けていると

「能登に支援活動に行った」人の話が飛び出た。

確かに、それも立派な「集まる」だ。
この集まるは、一回目の、それぞれが一人、少人数では抱えきれない問題を、みんなが集まることで支え、動かしていこうという「目的のある集まり」の最たるものだとも言える。これに文化会館がどう関われるかは、具体的な悩みを聞いていくことで平時には見えていなかったハコの、新しい側面が見えてくるだろう。
「集まる」という話題で、震災まで射程が伸びたことに僕は、なんだかすごい場に居合わせた、と少し興奮していた。ここに集まっているのは研究者や専門家ではなくここで暮らす農家や保育士、飲食業やコンビニの店員、いわゆる一般人。
では、この場の何が、こんな深いところまで僕たちを連れてきてくれているのだろう。しかも、肩が凝るような、固い言葉の会議ではなく、笑顔が絶えないままでそれが起こっている!

震災の話が出たところで、終了の時刻となった。
ところで震災などの復旧、復興に際しては、個人の財力や労力では限界がくるのも想像がつく。震災でなくとも、限界集落、小さな集落にとどまらず僕が住んでるような地方都市も、人口減少の問題が必ず話題に出てくる(僕個人としては、人口減が問題になる社会構造そのものが問題じゃないか、と思っているけれど)。
ということで、三回目に向けて
「継続して集まる」
について、なんとなく考えてきてもらうことにして、二回目のワークショップは解散となりました。

三回目 ソフト(人、内容)は流動的に。ハード(ハコ、設計)は安心を。

たった二時間程度のお喋りで、とんでもないところまで話がきたな!と、僕は素直に嬉しくて、みんなにこの話をしたくてうずうずしていた。
言っても文化会館にまつわるワークショップで、でもそんな壁は早々に飛び越えて、しかもしかめっつらの会議ではなく、ほんとうに「お喋り」に近い話し合いが、「集まる」ということの根幹に向かって、小難しくなく、ここまできてしまった。ただ、普段のお喋りと決定的に違っていたのは、話し出した人の声を遮る人がいなかったことと、否定の言葉が出てこなかったことだった、と今振り返ってみると思い出される。
(否定の言葉が出ないことが良いことだ、それはわからない。「それは間違ってますね」は否定ではなく訂正だ、訂正と否定は違う、けれど語感や態度で否定になりうる、「それは間違ってて、」は前者の発言を受けて紡がれる言葉なので、前者がなければ話されなかったかもしれない、どちらも同じ話としてつながっている、否定はだから内容ではなく態度、存在のところで切断が起きることなのかも)

前回話題というか課題だと思われた「継続して集まること」を考えてきてもらった。とはいえ、僕のグループは回のたびに欠席の人がいたり、新たに入る人がいたり、入れ替わりがあったので、そもそも課題を知らない人もいるし、お願いした僕も一体どう考えたらいいのかも難しいと感じていた。
話のきっかけをどう切ったのか、もう忘れてしまったけれど、僕がはじめ頭に浮かんでいたのは部活とかスポーツ少年団とか会社とか、そういう、継続の形だった。

皆さんも同じようなことは浮かんでいたようで、ただそれらに足が向かうのはやっぱり
「楽しいからこそ続くよね」
「義務感が生まれると、やはり足は途絶える」
継続には、やっぱり自主性が欠かせないだろうという意見は皆が首肯するところだった。もちろん、義務から始まったものがいつの間にか習慣になったり、楽しさを覚えることもあるので、そこを見極めるために何度か試してみる、というのも大事なことだね、という話も。これは後で誰かと話したときだったかもしれない。
僕は、このワークショップのことを思いついて
「そもそも、このワークショップ自体、参加資格が、「基本的に全3回出られる人」というのがありましたよね。これ、皆さん結構ハードルになってました。「2回だったらいけるけど」とか「一回行って、俺無理だったらなぁ」とか」
「でも、このグループだって、人は入れ替わってるけど、続いてるよね。これって面白い」
確かに!
さらにここで
「うちも、子どもたちやお母さん、大人も何やるかで全然くる人変わるけど、ここにそういう色んなことができる場があって、それが続いてくって感じです。しかも、別々の内容や人がときどき繋がって、また全然別の何かが生まれたりして」
内容や人が固定されると、重さや義務感が生じやすくなるんじゃないだろうか?
この視点に、僕はハッとした。

集まる、に注目してみれば、誰が、や何を、よりもずっと集まることそのものがずっと大事なことだ。
ただ集まれる場が生じ、継続されてゆくと、そこに意志や目的を離れた柔らかな重力のようなものが生まれて、自然と人が集まることが続いていく。場としては確実に存在してるのに、固定されていないが故にさまざまな形に合わせることができる。そのとき起こる必然性によって、形を少しずつ変えてゆく場。これって、もうほとんど、村とか集落とか、世代を継いで続く共同体の在り方そのままじゃんね。

となると、文化会館という概念ではなく物理的なハコを考えたとき、形そのものを柔らかく変えてゆく、ということはかなり難しいものがあるだろう、ということはそこにいる皆思い至っていた。
「となると、まさにこの会場(このときは四つある講義室?の移動式の壁を全部取っ払って、広い一室として使用していた。)みたいに、なるべく簡素で、壁が移動できるようなものかな」
「一回目に出てきたみたいな、芝生の公園とか広場みたいなのもいいね」

色々と案は出るものの、形として現れるハコは、できてしまったらやっぱり限界はあるし、そういうことではないもっと重要なことがありそうだ、この会はいつも具体的な話が次第に抽象性が高くなってゆく。ここも面白いところだ。何しろ、抽象度が高くなるほど矛盾を包括し、概念そのものは広いが単純なものへとなってゆくのだから。

「そこはやっぱり、何度も出てきた「安心」がキーワードになるんじゃないか」

一回目の一番はじめに出てきた「トイレ」も、ただのトイレではなくて、急に催したときにも気軽に入れたり、登下校の児童たちが何かあったらパッと逃げ込めるような、というまさに「安心な」ハコを求めている、という話だったのだ。
問題解決のために誰かを頼れる場も、知らないもの同士が勝手気ままに過ごしてる空間にわざわざ足を運びたくなるのも、皆「そこにいる/行くと安心できる」ことが目的なのだった。
つまり、僕らがハコに求めているのは「安心できる」ことなのだ。
それじゃあ、安心できる場、その設計はどのようにしたらいいのだろう?

安心できるハコ、そのために必要なこと

と、まさにここからがみんなが知りたいこと!
ここまで話が進んできたところで、終わりの時間が来てしまったのだった。

合計で三時間ほどのお喋りを終えて、テーブルを片付けてみんなで椅子を車座に並べて座る。
四十人近い人たちが1分ほどの短い時間、今回の感想や思ったことを述べていった。グループリーダーは各グループの話をまとめて発表。皆さんが何を話してくれたのかもう忘れてしまったけれど、覚えているのはどのグループでも

・安心
・自主性・主体性
・義務ではだめ
・楽しいところに人は集まる

ということが述べられたことだった。
つまり、ここを抑えられれば、「集まる」が自然に発生してゆくことができるってことだ。と同時に、これはある問題を端的に現してるな、と思いながら聞いていた。
というのも、上に挙げた安心や楽しさがどのグループでも中心的な話題として上がった、ということは誰もが思いつくということだ。にもかかわらず、現実のこの街を見渡してみて、学校でも家庭でも職場でも、公共の施設ですら、いや特に社会的に優先されるような場においてすら、これらが実現されているところが果たしてあるだろうか?むしろ、僕には逆のことが集団の前提として採用されてしまっているように見える。迷惑をかけないように、みんな我慢してるんだからお前も我慢しろ、権利を主張するならまず義務を果たせ、自分ばかりが楽しい思いをしては申し訳ない・・・・・・
皆、こうすればもっと快適に、活き活きと生きることができるのに。というのに何が必要か、わかっているのに、それができないのはなぜなのだろう。

一つは、文化と経済を天秤にかけて、経済的発展を優先させてきたこと、その継続によって僕らが暮らしや物事を考える時の前提に、無自覚にも「効率」や「生産性」が染み込んでしまっていること。主体的に自分を捉えるのではなく、会社や組織の歯車としてのわたしに注目してしまうこと。

もう一つに、グループの発表として僕が最後に付け足したことを記しておこうと思う。ちょうどこの日、ツイッターで目に入った投稿に書かれていたことで、思い出しながら書くけれど

昔の人は夏はハコ(空間)を涼しくし、冬は自身の身体を温めた。
現代人は夏は自身を涼しくし、冬はハコを暖める。
夏の暑い日に氷を掻っ込むのは、一瞬はとても快い。冬、寒い寒い外から暖房で暖められた部屋に入るのは、一瞬とても快い。でも、そのままでいると次第に身体はだるくなったり、冷えたりしてしまう。
つまり、現代人は「快楽」を求めている。

快楽を求めすぎると、安心は得られない。

快楽を求めすぎると、安心は得られない

安心とはなんだろう。
その要(の一つ?)が、上のツイッターの投稿に表されているのではないか。
僕は、そのことを付け加えて、Bグループでの話し合いの締めとさせてもらった。

僕が今、年中裸足でいたり、裸で寝てたり、四つ足で歩いたり、珈琲の焙煎や抽出にも数字ではなく感覚に注目していること、怪我や不調のときに病院に行ったり薬局でもらえる薬を飲んだりせずに過ごしていること、武術や身体の稽古をかじっているのも、そこに理由がある。

現代において、ハコが作られるとき必ず謳われる安心・安全や、そこで行われる物事は、快楽なのか安心なのか、どちらが優先されてるのだろう。

自分事にする = 身体で捉える

最後に、このワークショップの一回目と二回目のあいだに見つけた、一冊の本の紹介で閉じようと思う。本のタイトルは『「みんな」って、誰だ?』(宮本匠 / 世界思想社)。
中越沖地震の後、新潟県の限界集落を訪れた著者がそこに足繁く通い、半分住み込むような形で住人たちの話を聞いていく中で起こったことが書かれています。そこには、少子高齢化も止まらず、震災後の復旧もままならない現状にもかかわらず、そこに暮らす人たちがぽろっと
「過疎が止まったなぁ」
と認識するようになった、という話が出てくる。実際には問題は変わらずあるのに、それを認識する人の考えが変わると、問題が問題でなくなったり、違う形を取るようになっていった。そのきっかけは、問題を社会的な問題として他人事にするのではなく、自然と「自分事」になっていったことだったそう。

僕は、この「自然となっていった」ことが重要なのだと思う。いくら国が「自助、共助」を優先しなさいと言っても、それはお前ら自分のやるべき「公助」を考えろ、である。公助が必要ないではないのだ。そうではないけれど、同時に個人は個人で物事を「自分事」として捉えること。それも勝手に。そのために必要なことはどんなことなのか、そこにも僕は僕自身の身体、がキーになってくるんじゃないか、と直観があるのです。それこそ、安心や快適さも頭ではなく、身体で感じるからこそ自身とズレのない快さがわかるのではないか。いや、わかるわからないではなく、自覚しなくても感じていることはたくさんある。安心も快さも、その渦中にいて、ふと気づくものかもしれない。

前の店舗の道を挟んだ向かい側には、大きな欅や桜が植割っている芝生の公園があって、どういうわけか柔らかい風がいつも吹き抜けてゆく場所だった。あるとき、退職を悩んでる女の子が来て店内で話をしていたとき、その日はその年の夏で一番暑い日を記録したんだけど、
「それでもやっぱり、(このお店で今エアコンが動いてるおかげみたいに)快適な暮らしができる家も必要だし」
「それじゃさ、ちょっとあそこに行って、しばらく考えてごらんよ」
と言って、僕は欅の下の石のベンチを指差した。彼女は店を出て、しばらく芝生に座って、欅の方を向いて、ぼんやりしてるようだった。小一時間もしてから、僕は彼女のところに行った。すると、
「ここは、別世界ですね」
「?」
「すっごい気持ちいい。木陰、風が吹いてて、土があったかくて」
「さっき「快適な空間」の話したとき、ここみたいな想像してた?」
「いいえ」

人類は、人間に内在されている力を外在化させることで、社会を広げてこれた。でも、外在化されたものに頼り切っていると、もともと持っていた身体の働きは十全に活かされない。快適さや安心には、そういう働きが起こることも必要不可欠な要素なのではないか、と僕は思う。
バリアフリーは、車椅子の人や足の悪い人などにとってはとてもありがたいものであると同時に、自身の足だけで歩ける人が衰える要因にもなりうる。事実、僕の店の一番の常連であるTさんは小児麻痺に脊椎間狭窄症で片足が動かなかったが、週に2日だけ公園に通っていたとき(コロナ禍と呼ばれた時期、僕はお客さんと一緒に外の公園によくいたのだ)には、車道と歩道の段差や芝生の凸凹を歩いたり、地べたに座ったり立ったりの繰り返しをしていただけで理学療法士が驚くくらい歩けるようになった。それが、僕がその店を離れると同時に公園に行かなくなったTさんが、その二週間後のリハビリで体がずっと固くなってしまったそうだ。

安心を得るにも、身体的な意味で自分事にする必要が、ある程度はあるのかもしれない。公共の施設で、その線引きをどこにするのか。見方によっては分断と捉えられる線引きも、概念や常識ではなくて、身体的な点から捉えていってほしいと思う。安心や快適さ、楽しさも、頭ではなく、というか頭も含めて身体全部で感じるものだから。

社会のなかに自然があるんじゃなくて、自然の中で秩序という枠を作っているのが人間の社会だ。人間は、社会のルールや常識の前に、その社会をも包括してる自然の法則に則っているのだから。集まる、も概念でのみ意味づけするのではなく、僕らにいちばん身近な自然である、この身体から捉えていくことの大事さを、「ゼロから「集まる」を考える」ワークショップを通して、改めて教えてもらった気がする。



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