塩梅。問題はまず、量が大事
美味しいってなんだ?という問いをときどき、さっきも思い出したら
生き物を殺して食べることをどう捉えたらいいのか、人類がまだヒトだった頃のことを想う。
昔々この手で、この口、牙で、直接目の前のイキモノを捕えて食べていた、捕らえると食べるはほぼ同時に起こっていた、イキモノを生きたまま食らっていたヒトであったときの記憶が、もう今のままでは手の届かないくらい深いところだとしても残っているはずだから、それを想う。
するとある時期から、人間は生き物を殺して食べることを特別なことと感じるようになった。それほど遠い昔じゃない、ヒトの歴史でいったらずいぶん最近のことだ。感性の変化の歴史。私たちの中には、感性はひとつあるだけではなく層になってることがわかる。
四足歩行をしてて、人間はまだ四足だと思う。完璧な二足は多分、二本足で歩いた恐竜だけ、鳥もかな?ヒトが二足にならなかったのは、料理を覚えたからじゃないかと想像している。色々なものを色々して食べれるようにあれこれできるよう脳や体が発達した。そのままで食べれるように他のイキモノは自分の身体を変革した、ヒトは食べるものの方をこねくり回すことにした。その結果、それように身体も変化した。
子供のあそび、おままごとしてる姿が浮かんだ。遊びだよね、どれも遊びから生まれてる。もちろん、遊び大歓迎。洗練や真摯さを疑う、あるいはそれらを遊びで包みこむ。
鶏を飼ってる農家さんと、自分の手で生きた鶏を捕まえ、〆て、毛をむしり自ら包丁を振るって、料理して食べる。それに感動する。今の僕たちにとって、それは大きな意味のある行為だ、なんというか儀式に近いものを感じる。僕は鶏を〆たことはないけれど、猟師の友達について猪を捌いたりするのを手伝ったことがある。僕も、なにか感動を覚えた。涙さえ浮かべたりして。「肉、取りにおいで」と言われて喜んで行ったら、うりぼうが丸々焼かれている姿にびっくりした、ちょっと興奮した。「肉」と聞いてせめて塊じゃない姿を想像なんかしたことなかった。
ブルキナファソの籠を仕入れてる友達は、村に行ったら「今日は特別な日だからね!」って言って、庭を(写真を見てもそこは庭なのか、乾いた赤い土が広がってるだけで塀も柵もなくて外と家の境が曖昧で、そういうのもいちいち驚きだ)気ままにほっつき歩いてる鶏をさっと取って、首を折って血を抜いて、毛をむしって焼いて、おっきな葉っぱの上に肉を広げてみんなで食べたって、特に儀式もなく厳かさもなく、ただ肉にありつけられたことを喜んでる、それはあまりに日常だった。僕の中のヒトの記憶が、ピクッと動くのを感じる。
「命を大事に」しているのは、どっちなんだろうか。どっちもなんだろうか?
肉食、菜食、不食、生食。一日二食だいや三食だ、バランス、必須栄養素、減塩、コレステロール・・・
思想のどれがいいとか悪いとか思想で判断しても堂々巡りで、それより身体と頭が一致していないことの方が心配、心身不一致だけが心配。気持ちが生き物を殺して食べることを拒否するなら、心身一致してるなら、その人も苦しくないだろうから構わない。気持ち=身体はそうじゃないのに頭でそう決めたら、頭は身体を従わせる。病のもとはそこから発生してるんじゃないか。症状の有無は、健康か病気かの判断の一材料なんだ。悪いもの食べてゲロ吐くのは症状かもしれないが、心身一致してるから問題ないわけで。塩のミネラルが血流を促すのに高血圧だと言って塩を控えたら、身体に負担がかかるのは当たり前じゃない?
頭で考えた理屈で納得したり説得しようとするのは、心身不一致をうながす、それは自ら病を掴みにいってることと同じだろう。頭で批判する人も、心配。でも伝搬して広がってゆくことは、もっと心配。その思想が当たり前になったら、その社会に属することはすなわちその病を得ることだ。コロナの話もそれだ、病を得たくないその一心で病(それも具体的な失調)の獲得に躍起になっているように見える。
40度の熱が続いたとき、僕自身の身体の働きに任せてなんもしなかったのは、それこそ血流も心臓の鼓動も呼吸も汗も、身体が生に向かう働きに乗ってみたい、どこまで僕は生きられるのかを知りたかったから、つまり生きたかったからそうしたのだけど、病院で診てもらい薬を飲むことが当たり前の社会からしたら命を粗末にしてるように見えていたことがなんだかおかしかった。心身一致の結果、身体がもう生きている状態では快を得られなくなって死に向かうなら、それが健康に違いない。それをちゃんと見極められるのは僕ではなくて僕の身体じゃない?
そうだ、
生きたものを殺して食べるのが駄目、と言うことならその者、が寿命で息を引き取った後のそれ、ならどうか。誰も殺さず、誰にも殺されず寿命で息を引き取ったものを食べる。ただ「肉」を食べるのがダメ、と言うのはちょっと理屈はわからない。
袈裟が黄色いのは、もともと生きている誰かのものをもらうことをよしとしなかった修行者が、死んだ人から被服を剥いでそれを縫いつないでまとった布が元だったとか。調べたら、私有財産を持つことをよしとしなかったから、らしい。
今って死んだ者、その者に属するものは穢れとする観念があるけど、その頃(の仏教者)にも死を穢れとする発想があったら殺生もダメ、価値あるものを持ってもダメ、死んだ者の持ち物は穢れてるからダメ、もう何にも着れないし、食べられない。そしたらもう餓死しかない。周りに食べるものがないとか、獲物を取れないとかじゃない。思想としてダメ、それ人類じゃない、となって人類として死ぬのは寿命と呼べるか。殺された、じゃないのか。
現代における最大の禁忌は、同じ人類の命を奪うことだ。殺人。
飛行機が墜落して、山で遭難して、無人島に流されて、もうあなたと隣人しかいないとき、あなたは隣人を食べますか?
そんなの、その時になってみなきゃわからない。絶対、わからない。これは質問が悪い。悪い質問には「うるせぇ」と言うべきだ。
でも、ちょっと待って。
この質問の「隣人」が「わたし」だったら?どう?
飛行機が墜落して、山で遭難して、無人島に流されて、もうあなたと隣人しかいないとき、あなたは隣人に食べられますか?
殺して食べることが特別で罪悪感を伴うようになったこと、ともしかしたら死を特別なものとしたことは繋がっている、は人類が他の動物に殺されて食べられる恐れがほぼなくなったことと関係あるのかもしれない。なんでも特別なものとしてしまうのも、考えものだ。
襲い襲われ、殺生のなかで生きることが自然で、その中でイキモノたちは生き延びるために色々な方策をとってきた、人間がしてきたこともその延長なんだろう。ハリネズミが毛を尖らせたり、アリクイが顔や舌を長くしたり、カエルが毒を持ったり、するように人間は道具を作り、共同体を構築して、今や他のイキモノに食われる恐れはほとんどなくなった。すぐそこにあった生と死が、どんどん遠ざかる。どこまで離れたら、安心?そりゃ、どこまででも。遊びのない世界。
死を特別にしすぎて、遠ざければ遠ざけるほど、ヒトは、人間は死を希求する。
そんな気がしてならない。屠殺する場を遠ざけ、排泄物を隠し、建物の中に虫がいるのが異常、除菌抗菌滅菌。ヒトが生まれ死ぬ場所のほとんどは病院の中。こないだ久しぶりに畑で干からびてるネズミを見た、小学生の頃道端で轢かれてた鳩を近くの砂山に埋めたのを思い出した。用水路の傍で息絶えていたモグラ。
コロナ禍を経由したら、死に際に会えなくなったらしい。人は、どんどん死から遠ざけられるようになった。生々しさはいつでも死を内包してる、死からの距離がある地点を通り越すと、生からも遠ざかる。
結局、塩梅なのだ。
どこまでやるか、どこで止めるか。
それは思想とか概念の話じゃない。具体的な距離、量の問題。
塩梅か。
塩加減。美味しい、の大事なところは塩梅。味の、量の、手間の、噛む回数の、食べる量の、いい塩梅。
塩梅って、いいな。きっかり「ここ」と決まったポイントがあるようでないような、でも絶妙な加減を求められる。それはきっと、常に今の自分さえ、過去の自分とは違う自分だから。過去をいくら参照して「ここ!」を決めても、今このときの「ここ」とは限らない。あそびがある、ってことかな。
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