頭から雑想、あるいは雑草 66
死者との対話
20年以上ひとり家の前の小さな畑で自然農法を実践してる岡島さんから自生えの人参を譲ってもらって、僕の畑にこれまた自生えのカモミールと一緒に移植した。
人参はこれで二度目、一度目は伸びていた葉が枯れ、それでも芯から小さな小さな葉が顔を出してくれたのだけど、そこで過信してそのままでいたら結局枯らしてしまった。
今回は、ライ麦の枯れたところを取って敷いて乾燥を避け、コーヒーの粉を土の上にいくらかふりかけて、毎日たっぷりの水をあげるのを忘れないように、
はじめは一回目と同じようにもともと伸びていた葉はみな枯れて、芯から芽吹いた葉は少しずつ大きくなって、そして今はしっかり根付いてくれたみたいで、葉っぱも持ってきたときの三倍くらいの大きさに育った。
人参はもともと乾燥に強く痩せた土でも育つらしいのだけど、移植した初期には毎日やるくらい水を必要とするようだ(これは、ネットで人参のヘタを水につけると葉が育つ、という情報を見たから試してみたのだ)。
頭でわかるようなわかりかたで考えれば、多分、それまで人参の根とその周りの土の菌糸ネットワークが繋がっていたから吸収できていた水と栄養が新しい土では形成されていないから、栄養は人参に蓄えたぶんでなんとかなるとしても、根が十分な水を土中で吸い込むことができず、僕が水やりをすることでその水分を補っていたのではないか。
でも僕は、頭ではないところで、「人参は死者と対話していたのだ」という考えが浮かんでいた。
土って、いったい何で出来てるんだろう?小さいながら去年から畑をやるようになって疑問に思うようになっていたところで、
砂や岩も含まれているけれど、それだけがいくら集まっても土にはならない、土になるには植物の、動物の、生き物の死骸が必要なのだ。土には大勢のウンチも沢山含まれているけれど、それも死骸だ。そんな当たり前のことを、僕は今まで知らなかった。もちろん生きている微生物も土の大事な部分ではあるが、これは逆説的に僕らが菌や微生物にたいしてなぜか「死」の感覚を覚える理由なんじゃないか、と思う。
そう、土は死者の世界なのだ。黄泉が地下にあるのもそういうことなのかもしれない。
そして人参は、そこにいる死者達と対話し、接続しながらも切断?、侵入はさせないことで生者としてこの畑に生きることができた。死者と完全に同一化しないことは言うまでもないが、死者の存在なくして人参は生きられなかった。死者がいるからこそ、人参は生きることができる。
それは僕らも同じなのではないか?
これはとても大胆で不謹慎な考えかもしれないけれど、もしかしたら、僕ら人間が自殺したり殺したり殺されたりするその一因は、生きている間にあまりに死者から遠ざけられているからなのではないか?
行動として自分や他者を死に追いやる行為のは、現象としては死の希求ではないか?
社会によって僕らは死から遠ざけられている。その距離は、どんどん離れていくばかりだ。
火葬である以上、僕らは土には還らない。それどころか、日々のうんちでさえ土に還らない。死骸の一形態である食事も、それが死者であること、死の気配からいかに遠ざけるかに心血が注がれ(その反動としての生肉、生食はあれど、それはあくまで文化的な範疇の反動だ)てきている。地面はアスファルトで覆われて、一体今立っているここから、何歩進めば土を踏めるだろう。辿り着いたところで、その足と土は隔てられている。それどころかインターネット空間は、死者が死者として存在できないかのようだ。どれだけ時間が経ってしまっても、そこに生き続けているかのように錯覚してしまう。
死者なくして生きられない。
そんな者たちがしかし社会によって死者が追放され、その気配すら消されてしまったその結果、自らに死を希求してしまうんじゃないだろうか。
生きられる条件のひとつには、きっと、その傍らに死者の存在が不可欠なのだ。
書物を求めるのもまた、そのひとつなのだろう。僕らは、死者との対話を求めている。生きるために。