いぬがしゃべりました ④【しゃべった!】
<第4話>「しゃべった!」
どこからともなく聞こえる声。
”モぉ……”
サトーさんがこっちを見ている。
”モぉ……モぉ……”
こっちを見ている。
”モモ…”
えっ!?
”モモ………チャン”
サトーさんが、私の顔をじっと見つめている。
え?もしかして、しゃべった…?
緊張感が走る。と、その時、
「ばあ。」
ソファの陰からパパがひょっこり顔を出した。
声色を変えて、「モモ……チャン。」
えっ?
「モモ…チャン…オナカ…スイタ。」パパがパクパク、口を動かす。
なんだ。パパかよ。
「やめてよ。うっざ。」
頼んでもいないのにふざけるのが、パパの良くない所。
テレビ局に勤めているから、家でも安いバラエティ番組のようなノリが抜けない。家の中が暗いからって、無理してる感じも嫌だ。まるで罪滅ぼしのように。
「喜ぶと思ったのにな…」的な期待外れの表情でサトーさんを抱き上げた。「意外と、そう言ってんのかもよ。」と小さな黒い鼻先にごつい鼻をくっつけ、おどけた顔をする。
「いいから、そういうの。」
パパはまだ私のことを子ども扱いしたがる。パパだけ成長していないみたい。
最近、パパのことはなんだか微妙。小さい頃はよく一緒に遊んだけど…、でも、今はちょっと違う。ううん、嫌いなわけじゃない。嫌いじゃないけど、ベタベタするのもね、なんか違う。私の日常生活に関係ないって言うか。仕事ばっかで家にいないし、どうせ私の話しても分かんないし、女子とは違う生き物だし。
「サトーさん、向こう行こ。」
サトーさんはテレビの前でじっと座っている。微動だにせずニュース画面に集中している。
そんな姿を見ていると、アナウンサーの読み上げる言葉がまるでわかっているかのように見える。なんだか人間みたい。
パパが「ネットに、会話をする犬が出てたよ。ほら、」
え?なにそれ?
ちょっと気になる。
スマホを自慢げに差し出すパパ。くやしいから表情を変えず横目で盗み見る。画面にどこかの投稿映像が現れた。
動画に映っているのは、
どこかの家の中だろうか、床に手のひらサイズの丸い物体がたくさん転がっている。カプセル状のボタンスイッチのよう。赤や黄色、青、カラフルにいくつも散らばって置かれている。
やがて賢そうなラブラドール・レトリバーがやってきて、前足で器用にその中の青いボタンを選んで押すと、「ゴハン」という音声が流れた。そして、黄色いボタンを押すと「お願い」という声が流れる。そうすると飼い主の女性がお皿を床に置いて、ワンちゃんが嬉しそうに食いつく。
「このボタン、オモチャだって。アマゾソでも売ってるよ。」
まじで?むむむ。サトーさんでもできる?心の中では食いついてしまった。だけど…、” 興味はないけど聞いてあげるわ ”という顔で「ふーん。このワンちゃん理解してるってこと?」って、しれっと聞いてみた。
「元々はね、アメリカの言語聴覚士の女性の実験だったの。犬と暮らしていてね、『アウト(出る)』という音声の出るボタンをドアのそばに置いて、いつもボタンを押してから愛犬と出かけたんだ。そしたら…」
「ボタンを押すことを、ワンちゃんが覚えた?」
「そう。」
犬が散歩に行きたい時に押し始めたという。
やがて、「フード(ごはん)」「プレイ(遊ぶ)」などだんだんボタンのレパートリーを増やしても、ちゃんと選んでボタンを押した。それはまるで自分の意思を伝えるかのように。
すごい。
だけど、「あ、そ。」そっけなく返してやる。
パパは時々ムダに知識がある。仕事で情報番組を作っているから、役に立たないどーでもいいことをよく知っている。
「サトーさん、あんたできる?」
”ワン…”
返事してくれると嬉しい。
時おりサトーさんは切なそうに見えた。飼い主の気持ちが分かるのかな。それとも沈んだ気持ちが私にそう見えさせるのかな。
”おゥ…”
なあに?サトーさん。
”おゥ…おゥ……だァ…だァ…”
何か言いたそう。
「変な鳴き声するね。」とパパ。「なんか言いたいのかな。」
「さあね。」
「”今日はいい天気ですね”って言ってるかもよ。」
「またぁ。出た、テキトー。ねえ、ママぁ。」
ママに助けを求めても、「え?あ……うん…」お皿を洗いながら関心がない。
「意外とそうかもよ。犬は鳴き方で意味合いが異なるんだって。」パパは巻き返そうと必死。
「もっともらしいこと言ってるけど…。」
「えっと…攻撃的な時は、低い声でうなる。ほら、大きい犬ほど声帯が太いから鳴き声は低くなるでしょ。つまり自分を大きく見せて相手を威嚇してるんだって。」
「ふーん。」
「でね、でね、逆に服従したり甘える時は高い鳴き声で小さくしゃがむ。」
「じゃ、『おゥおゥ』の意味は?」
「え?えっと…『おゥおゥ』ね…『おゥおゥ』かあ…」
ことり。
床に転がるスマホ。こっそりググっていた。
「カンニングじゃん。」
「いいじゃん。」あわててスマホを手繰っている。
「ねえママ、『おゥおゥ』は、どんな意味かな。」
「ん?あ、うん。」
ママはつれない。まるであえて会話に入りたくないかのよう。それだけじゃない。家族みんなで楽しくしゃべっている時間があまりない。
パパがただいま、って言っても、ママは返事しない。パパは、1人でしゃべってる。
ママは私に「桃々ちゃん、パパにごはんまだ?って聞いて。」
パパは私に「桃々ちゃん、ママにごはんよって言って。」
自分で言えば?二人とも。
ううん、仲が悪いわけじゃない。そんなことないよ。そうに決まってる。そう思いたい。
去年の夏、”あのこと”があってからだ。本当は気づいているけど、気づかないフリしといた方がいいのかな。
小さい頃の動画を観ると、公園で笑顔いっぱいの私とママが遊ぶ姿が映ってる。パパの笑い声も楽しそう。みんなが笑顔で話すのを見ているのが好きだった。
楽しかったな。
だから私は、小さな頃の動画を時々見たくなる。温かい気持ちになれるから。
家族ってこういうものなのかな。ずっと同じ生活…ずっと続く仲良し…なんて無いのかな。以前といろんなことが変わってしまった。なんだろうな………またモヤモヤ……。
そんなクヨクヨも、次の日にはふっ飛んでしまうことが待っていた。
奇跡ってあるんだ。本当に。
◆
リビングのテーブルにママのメモが置いてあった。
” 遅くなるから、サトーさんにごはんあげてね。
8グラムぴったりだよ。多くても少なくてもダメだからね。”
いかにも大人っぽい、さらりとした文字が私に指図する。
「はいはいはいはい。」
外から帰って来た私は、メモに向かって独り言で返事する。家族のいないたったひとりの家。寂しい感じがちょっと好き。キャンキャン足元に絡みつくサトーさんの前脚をちょっと踏んで、
”キャン!”
「あっ、ゴメン。失礼。」
電気ケトルに水を注いで、スイッチを入れる。サトーさん専用のデジタル計量器で、えっと、8グラムね。こんなんで、お腹いっぱいになるのかな。
前足でカリカリ私の足を搔く。ちょっと待って、集中させて。計るの難しいんだから。パッケージに舌を垂らしたカワイイ犬の写真。袋から計量スプーンで、そおっと…化学実験のように慎重に足していく。
「はいはい。マンマだから待っててね。」
”アゥ…オん…おゥ…ダァ…ダァ…”
「もうちょっとね。マンマ作ってるから。」
背中越しにあしらう。まるでお母さんが私にやるやつ。
”んァ…んァ…”
「もうすぐだからね。」7グラム…あと1グラムか。
”ンまァ…ンまァ…”
「はいはい。マンマ。」9グラム…あ、入れすぎた。
”んマ…んマ…モォ…”
「マンマ。」よし8グラム。
”…モん…モぉ…”
え?
その時、私の耳に何かが聴こえた。
”…モん…モぉ”
え………?
なんて?今、誰か呼んだ?
”…モ…モ”
思わず振り向く。
”モモ…”
…………んーと。
うんうん。わかったわかった。
「はいはい。パパでしょ。」
見渡してみた。
けど、リビングには誰もいない。
「てか、そういうのいいから。やめて。」
しーん。
「パパぁ。ねえ。どこにいるの?」
ソファの裏にも、他の部屋にも誰もいない。
ぬいぐるみのタル兄ちゃんも私の机にぽつんと座っている。
「ねぇ…。」
そおっとリビングに戻ると、ガランとした部屋には誰もいない。
椅子にかかったカーディガンや、洗ったあとのお皿たち。パパやママの生活の息遣いが残されているけど、ちょっと寂しい無人の空間。
ただ、真ん中にちょこんと小さな子犬がいるだけ。
窓から斜めに差す午後の優しい光に小さな埃たちがキラキラ。四角い陽だまりにおとなしく腰を下ろして、サトーさんがこちらをじっと見つめている。
思わずゆっくり膝を落とし、おそるおそる、サトーさんの顔を覗き込む。
うそでしょ。そんなはずないよね。そんなはず…。
よく見ると細いまつ毛の先を光らせながら、つぶらな瞳で私の目をじっと見上げ、サトーさんが口を開いた。
と同時に、私にはハッキリと聴こえたのだ。
そう、確かに聴こえたのだ。私の名を呼ぶ、その声が。
”モモ…”
うそ………。
「ピーーーーーッ!!!」
突然けたたましく、沸騰したケトルが鳴り響く。
動くこともできず、私は呆然とサトーさんの顔を見続けた。
愛らしいその瞳はじっとこちらを見つめながら、小さな口先を巧みに操って、
”…モモ……モモ……モモ……ダァ…ダァ……”