いぬがしゃべりました ⑦【幼児期へ】
<第7話>「幼児期へ」
「もぉいいかぁい。」
返事がない。
梅雨前の晴れた空。公園の真ん中にそびえるイチョウの木。
ザラザラした硬い表皮に私は手をついて目隠ししながら、空へ向かってもう一度問いかけた。
「もぉいいかぁい。」
”まあだだよぉ”
弾むような声が返事する。走りながらなのだろう。シャカ、シャカ、シャカ。目を閉じていても、後方右へ滑るように横移動する爪の音が聞こえる。ああ、あのあたりかな。
「もぉいいかぁい。」
”まあだだよぉ”
今度は、左の方から聞こえる。迷ってるのかな。惑わそうとしてるのかな。
「もぉいいかぁい。」
シャカ、シャカ、地を蹴る乾いた爪の音。ぴたり止まって、遠くから応えた。
”もぉいいよ”
よおし。
振り向いた私。まぶしい太陽の光。目の慣れを待つまでもなく、いきなり視界に飛び込んできたのは、植え込みの下からはみ出てのぞく尻尾の端っこ。
早っ。
どれどれ、それで隠れているつもりなんですか?カワイすぎ。
「あれー、どこかなあ。」
わざと聞こえるように、とぼけて遠く離れたゴミ箱の陰やベンチの下をのぞいてあげたりする。
あの植え込みの尻尾が、釣り上げた魚のようにピチピチ跳ねている。私が的外れな場所を探していることが嬉しいからだろう。感情がダダ漏れ。カワイすぎ。
そろそろかな、という頃合いを計って植え込みの下を勢いよく覗き込んだ!
「見いつけた!」
『キャー』
飛び出したサトーさんは、見つかったのに嬉しいのか、私の回りをゴムまりのように飛び跳ねた。
まだまだ愛らしい丸い仔犬の面影は残っているけど、成犬のような野生の勇ましさをちょっぴり漂わせながら、
『モモちゃん、モモちゃん。』
「うん?」
『モモちゃん、だっこ。』
うしろ足で立ち上がり、両手で空を搔く。かなり話せるようになっても、まだまだ甘えんぼである。
「はいはい、よしよし。」いなす私の頬をペロペロ。興奮して腕の中で暴れる。
あれ?手が濡れている。
「うわっ!嬉ションしたっ!もう、やめてよサトーさん!」
なのに全然気にせず、
『もっと、かくれんぼ、もっと。』と飛びつく。
「えー、何回するん。」
『 ” サトーさん ”、鬼やる。』
得意げにペロっと舌を出す。自分でもサトーさんと呼びたいらしい。
「ダメだよ。鼻が効くから。すぐ見つかっちゃうじゃん。」
『やだ、もっと、もっとぉ。』
「もうおしまい。おつかれーしょん。」
『やだ、もっと!』
この瞳に弱い。だけど、
「ママがあんまり激しい運動しちゃだめって。ほら、私はサトーさんほど元気じゃないの。」
『もっと、もっとぉ。』
近ごろ「もっと」が口癖だ。飽きずに同じことを繰り返したがる。”幼児あるある”なのだそうだ。
パパは「桃々ちゃんだって小さい時、同じだったよ。かくれんぼ、もっともっとって言ってね。しつこかったよ。」なんて笑う。
サトーさんが初めて言葉を話してから、半年。
言葉は少しずつ増えて、小さな幼児ぐらいの会話ができるようになった。
そう、サトーさんはオウムや九官鳥ではなかった。人の言葉のマネゴトをただ繰り返すのではなく、ちゃんと自らの意思を伝えていた。
「異常な早さだな。イヌは人間より年齢が7倍早く進むっていうからかな。もしかしたら学習能力も人間より早い?まさか…ね。」
パパは不思議そうに、でもまるで我が子の成長を愛おしむかのような目で見つめる。
イヌは1ヶ月で、ヒトの1歳分の年をとる。1年では15歳になってしまうそうだ。2年経てば『成人』って、早すぎ。
うちに来てから半年経った今、サトーさんはフィジカル年齢で小学生くらいというところかな。でもまだ生まれて数か月。精神年齢は、まだまだ甘えんぼ幼児である。
地震の夜、この子の今後については、「様子を見よう」と先送りしたまま。今日まできてしまっている。暗黙の了解で『サトーさんについて、もう少し何かがわかったら。』と勝手な区切りをつけていた。
いや、情だろうか。愛らしいサトーさんとの日常を重ねてしまうと、家族みんな、そのことにあえては触れられなくなってしまったのかもしれない。
もう少し、もう少し…と。
だからこそ今はまだ、この子の ” 秘密 " を他人に知られてはいけない。
「もっと、かくれんぼしよ。もっと、もっと、モモちゃんもっと!」
よほど好きなのか、公園のベンチに飛び乗って催促するサトーさんに、私はほとほと困らされていた。
「サトーさん、オシャベリ我慢だよ。忘れたの?『お外に出たらぁ…?』」『お口、チャックで、ワンワンワン!』両前足を顔の前に垂らして、犬のポーズ。
「人がいたらぁ?」
『お口、チャックで、ワンワンワン』
「でしょ、だから…」
そんな時…
背中に刺さるものすごい視線を感じた。
誰か見ている!
振り向くと視線の主は小さな男の子。
5歳にも満たない。通りがかって声を聞いてしまったのか、呆然と立ち尽くして目をまんまると見開き、ペラペラ喋るサトーさんを凝視している!
「あっ…」私が隠そうとした瞬間に、逃げるように走り去り誰かに飛びついた、
「ばあば!ばあば!ばあば!」
やばっ!あの人って…!?
見慣れたカーディガンに少しぽっちゃりしたたたずまい。
八ツ橋さん!?
そう、男の子が足元に飛び込んだオバサンは、ママの働く図書館の八ツ橋さんだった。
「ばあば!ばあば!あのワンちゃんしゃべったよ!」
いぶかし気に目線を移した八ツ橋さんが「あら。」と私に気づいた途端、表情をやわらげ、
「あらー、桃々ちゃんやん。えらいねぇ。ワンちゃんのお散歩してはるんや。」小豆色の口紅で塗りたくった唇を ”にいっ” と横にのばし、必要以上に社交辞令な笑顔を振りまいてくれる。ピチピチに着たカーディガンのワンポイント刺繍の犬が伸びきって苦しそう。
「あっ、はいー。こ、こ、こんにちは。」
しくじった。
外で遊ぶときは、サトーさんは絶対に喋ってはいけないルールだった。
物心つく前から言い聞かせているので、そういうものだと気をつけてはいた。
だけど、まだまだ幼い子ども。遊びに熱中すると周りを気にせずつい大きな声でしゃべってしまう。私もうっかり油断していた。
どうしよう。なんとかしなきゃ。
とっさに私はサトーさんを抱きかかえ、操り人形のマペットのように両足をつまんで操り、男の子に挨拶するフリをした。
「コンニチハ、コンニチハ。」アニメ声のモノマネでごまかす。
八ツ橋さんは私に「あらーん、かわいいやないのぉ。名前なんていうのん?抱かしてくれる?オバちゃんとこね、実家でいっぱい飼ってたんどすえ。」相変わらずの勢い。
だけど、男の子が「このワンちゃんしゃべったんだよ。」と言葉を挟むと、キッと孫を睨み、
「この子は、なに言うてんの。ようわからんことを。」
「しゃべったんだよ、あのワンちゃん.」
「アホなこと言うてんと、さっさと来なはれ。桃々ちゃん、ごめんねぇ。」後ろめたそうにサトーさんが私を見上げる。耳をペタリと下げ前脚で口を押えて、
『しゃべってないよ』
とこっそりつぶやいた。それも男の子は聞き逃さなかった。
「ほら今!今、しゃべったじゃん!」全力で指差したが、
「もう、ええ加減にしなさい!スイミング始まってしまうやろ!」八ツ橋さんは、かわいい孫の戯言をぶった切るように、大きく開いた手のひらでお尻を”バスっ”と叩いた。
「イタっ。」
「桃々ちゃん、ほなまた明日ね。」腕を掴んで引きずっていった。
「だって、本当なんだよ、ばあちゃん!本当にしゃべったんだよ、あのワンちゃん!」
「ええかげんにしなはれや!」腕を引っ張る。
「だって、ばあちゃん…イタタタタタタタ…」
あぶなかったぁ。
無残にも遠くへ連れ去られて行くその声。見送りながら、
「すまん、少年。運が悪かったと思って許してくれ。」
サトーさんと二人で合掌。ちーん。
はっ!
去ったはずの八ツ橋さんが、振り返り不思議そうな顔で私たちを見ている。その雰囲気はなんとも言えぬ疑念の影を帯びていた。しまった。油断した。
「あ、どうも。」と笑顔で会釈してごまかすと、八ツ橋さんも、笑顔に切り替え「どうも。」と去って行った。
切り抜けた、と思うようにした。
だけど八ツ橋さんとのこの一件が、サトーさんの運命にあとで大きく影響を及ぼすことに、私たちはこの時まだ気づいていなかった。
◆
あの地震があって、いつも正論なママもサトーさんのことを公表すべきだとは言わなくなった。サトーさんがタル兄ちゃんの手袋をもってきたからかも。
私が寂しがってるから、もしかしたらタル兄ちゃんが生まれ変わって帰ってきてくれた?
…とか、こっそり思った。だけど言うのはやめておいた。
口に出すと、なんだか夢から覚めてしまいそうな気がして。ママも「樽斗と一緒にしないで。」と嫌がるだろうから。
私たち家族は秘密を持った。
秘密って、はじまりは小さな種。だけど人に言わないうち、やがて誰にも言えなくなって、想定以上に育ってふくらんでいく。いつか手に負えなくなって…。
いやいや、心配してもしょうがない。この選択肢しかないのだから。
それにしても、あの地震の夜、サトーさんになにがあったのだろう。
地震が起こることが分かった?言葉を話すだけじゃなく、そんな特殊能力まであるというの?なんだかすごい。
「サトーさんは動物としてあたりまえの反応をしたのかもしれないな。うん。」パパは、ベタなミステリーの刑事みたいにアゴをさすりさすり、推理のまねごとをする。「よく聞くよね。地震が起こる前にペットが異常な行動をする。鳥やネズミが群れをなして逃げるとかも。」
「何か感じてるの?サトーさんは。」
「うーんとね。」
スマホでググったパパが読み上げるには、1970年ごろイタリアのえらい物理学者の説があるそうだ。地震の直前には「空中電場」に異常が起こるのだという。
難しすぎる。「くうちゅう…でんぱ?なにそれ?」思わず訊ねた。
「ううん、ば、でんば。電場。カンタンに言うとね、空中どこにもふわふわ電気が漂っている。ごくごく微量だけど。」
「電気が?ふわふわ?」
「そ。空でカミナリが起こったり、寒い日には静電気が起こったりするでしょ。」
「それがどしたの。」
「ちょい待ち。」
パパは論文サイトをスクロールしながら自慢げ。
「地震が起こったら、地下の地盤がズレる。その時、硬い岩石がすごい力を受けて壊れたりこすり合ったりする。」テーブルのクッキーをひょいと掴み、2つに割って擦り合わせながら、「バキッ、ガリガリガリ…って。そしたら電磁波が発生する。その影響で、空中の電場に異常が起こる。」
「異常って?」よくわからない。
「空中の電気の列が乱れるんじゃないのかな。それを動物たちは本能的に感じているんだ。」クッキーをほおばって、うんうんと自分なりに納得している。
「どうやって?」
「人間より感覚の鋭い目・鼻・耳。それに体毛やヒゲがアンテナの役割もしている。」
「へえ。」
「だから、地震が起こりそうなとき、動物たちはいち早く察知して騒いだり逃げ出したりする。他にも人間には聴こえない音、感じとれない重力の変化や地面の動きなども敏感に感じるのかもね。」
「サトーさんも?そんな力が?」
「サトーさんもいっぱしの犬。文明社会で鈍くなった人間とは違うのかも。」
パパはちょっぴり羨むようにサトーさんに目をやった。
サトーさん、やるじゃん。
だけど知らんぷりで、ソファで丸くなって大あくびしてる。
いつもの甘えんぼが、ちょっと頼もしく見えた。