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「青山誠と学ぶ保育基礎講座ほいくきほんのき」に寄せて その5〜間がけ、対話の前に

「青山誠と学ぶ保育基礎講座〜保育の読む、書く、見る、対話する」に寄せて。
今回は、間がけ、対話のまえに。
子どもとの対話についてあれこれ考える前に、
言葉がけのその前に、
保育者って「間がけ」してるよね〜、というお話。

私自身はいわゆる保育者の養成校に通わずに、独学で幼稚園教諭と保育士の資格を取ったのですが、今は、ご縁があって大学で学生さんたちに授業をしています。

二つの学校で授業を受け持っているのですが、どちらも「言葉」という授業です。
そうすると、保育を目指す学生さんたちですから、当然その授業では「どんなふうな言葉を子どもたちに投げかけたら適切なのかが学べるのであろう」と、授業名からして期待するわけです。
いや、聞いたことないけど、そう期待しているはず…。

でも、私はのっけから、
この授業では、いわゆる保育者の言葉がけも一緒に学んで行きますけれども、まずは子どもの言葉を聴くってことから始めるつもりです、と伝えることにしています。

子どもと対話する、って、私は無条件では成り立たないと思っています。
少なくとも、おとなの方に意識がなければ、自然状態では成り立たない。
なぜなら、おとなと子どもでは「ことば」が違うからです。

あえて、「ことば」と書きましたが、
おとなはいわゆる言語を使いながらコミュニケーションします。
一方、子どもの「ことば」は、泣くとか、地団駄を踏むとか、どっかに走っていっちゃうとか、隅っこにうずくまるとか、
一概に言語であらわれてくるとは言えません。

その前提条件を無視して、対話をするといったって、そのほとんどの場合は、
おとなが言いたいことを言っているだけになってしまうと思います。
おとなと子どもを腑分けしない、なんてことは、
少なくとも、ほっといたら強者になる側のおとなが無前提に言っていい言葉ではないのです。

子どもの「ことば」に耳を澄ます。それはある時は表情だったり、呟きだったり、振る舞いだったりします。
基本的には、他者なので了解不可能であることを念頭にして、こちらが推量したり、慮ったりする。
そのような姿勢が、子どもとの対話のはじめの一歩なのではないでしょうか。

そうなると、まずはじめに私たちが探らなければいけないのは、こちらがどのような言葉をかけるかではないはずです。なぜなら私たちは子どもとの関係において、まず聴く者として臨むからです。

そうなると(ようやくこの回の本題…)、言葉がけの前に、必ず「間がけ」があるはずなんです。
「間がけ」とは、私の造語ですが、読んで字の如し、子どもに「間」をかける。
子どもの声に耳を澄ます間であり、子どもの世界に身体を馴染ませていく間であり、その子に触れていく間です。

ある一人の子がいたとして、しゃがんでいたとする。
「どうしたの?」と急に言葉がけするのではなく、
まず、間をはかりながら近づいて、身体をその子の空間に馴染ませていく。

この辺り、ものすごく感覚的に聞こえるかもしれませんが、
感覚的というよりも、身体的と言ってもいいかもしれません。
この辺りの話題の補足になるかならぬか、
かつて大駱駝艦の舞踏手、田村一行さんと対談したときのnoteを再掲します。
田村さんとは大学のゼミの同級生。熱くて、くらーい青春を共にした友達です。

いい保育者ほど、この「間がけ」が精妙で、うまい。
相手への触れ方がとても繊細かつ、的確です。
でもいちばん参考になるのは、子どもが子どもに近づいていくときの間です。
子どもたちって、言葉に依らない分、こういう身体的な所作がとても精妙ですよね。だから、自分の関わりをもう一度見直したいような時は、私は子どもが子どもに関わるときの所作を、つくづく見て、自分の身体に入れるようにしています。

さて、次回は実際の「対話」、子ども同士の対話に臨むときのあれこれについて。

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