オーランド諸島(fin: Ahvenanmaa/swe: Åland)のメスタリペリマンニMestaripelimanniたち①1983年オットー・シランデルOtto Silander
先の記事で、Mestaripelimanniたちの居住地をご紹介しました。これには、先にそれらを把握していれば、かつてMestaripelimanniを生み育んだ土地で生まれ、後に続く、無名ながらもそれぞれ民俗音楽を楽しみとする音楽家たちの存在を詳らかにできるではないか、という狙いがありました。
ところで、去る8月14日(日)、フィンランド国営放送YLEで、コーカルKökarの民族音楽の昔と今を描いた、20分のドキュメンタリーが公開されました。
焦点が当てられているのは、ペール=オーヴェ・ホグナスPer-Ove Högnäs。1970年代にコーカルKökarのバイオリン演奏の伝統を復活させることに携わった人物です。監督はクラエス・オルソンClaes Olsson。製作:North Star Film。 2021公開。スウェーデン語の音声に、フィンランド語の字幕がついています。
折角の機会ですので、オーランド諸島のMestaripelimanniについてご紹介したいと思います。
2019年までに、オーランド諸島在住で、Mestaripelimanniの称号を授与された演奏家は2名おり、2名ともヴァイオリン奏者です。
一人は1983年に受賞したオットー・シランデルOtto Silander(1898-1984)。
もう一人は、2016年に受賞したシヴ・エクストロームSiv Ekströmです。
オーランド諸島に関する概観は、wikipediaをご参照ください。
「現在フィンランド政府によって、スウェーデンへの復帰を認められているが、帰属国を問う住民投票では現状を望む人が半数を超える。スウェーデンに復帰すれば一つの県にすぎないが、フィンランドのもとでは大幅な住民自治を認められ、海洋地域であるオーランドにとって非常に自由が利くからだとされる[4]。」
(百瀬宏、村井誠人監修『北欧』新潮社、1996年。ISBN 4-10-601844-6)
という記述には興味をそそられますね。1996年当時の最新情報ではそうだったようですが、今はどうなっているのでしょう。残念ながら調査結果などは見つからず、これから調べていきたいと思います。
最初に、オットー・シランデルOtto Silander(クムリンゲKumlinge在住)、シヴ・エクストロームSiv Ekström(ヨマラJomala在住)、ペール=オーヴェ・ホグナスPer-Ove Högnäs(コーカルKökar在住)の居住地を地図で確認してみます。
結構離れていますね。シヴ・エクストロームはオーランド自治県の県都マリエハムンの北側のヨマラにお住まいですが、オットーが暮らしていたクムリンゲKumlingeまでは65.6km、フェリー移動を含んで2時間半の位置にあります。また、ヨマラからコーカルKökariまでは同じく82.4km、コーカルからクムリンゲKumlingeまでは53.4kmあります。
各島同士の行き来はなかなかの長旅ですが、それぞれ交流があったのは間違いないでしょう。
オットー・シランデルOtto Silander(1898-1984)の略歴をご紹介する中で、明らかにしたいと思います。
オットー・シランデルは、1898年、オーランド諸島のクムリンゲで生を受けました。
父親のオスカルOskarは漁師で、腕利きのヴァイオリニストでもあったそうです。
父オスカルに加え、弟アクセルAxel、フェルディナンドFerdinand(注: オスカルの兄弟か、アクセルとオットーの兄弟かについては機械翻訳が完全ではなく、確かな関係性は不明)も家で演奏をしていました。
(原文: Isä Oskar oli Taitava viulupelimanni, joka koko elämänä kalasti. Isän lisäksi kotona soittivat myös Ferdinand ja veli Axel.)
(出典: Ilkka Kolehmainen. "Kokoelma Mestaripelimannit" Kauhavan Sanomalehti Oy, Kauhava 1992 (ISBN 951-9268-19-7))
オットーが演奏を始めたのは10歳の時。家の仕事が終わった後に練習を続け、村の結婚式で、他のクムリンゲ在住演奏家たちと一緒に演奏していたと記録されています。
オットーと弟アクセルは、長旅にもかかわらず、オーランド本土でもよく演奏していました。結婚式で演奏することはもちろん、1914年から52年にかけて、県都マリエハムンで開催された歌のコンクールにも参加しています。1933年(オットー35歳)以降、オットーは参加したほとんどのコンクールで入賞したそうです。
オットーは、クムリンゲの外れにある小さなコテージに一人で住み、父と同様、漁師として生計を立てていました。晩年、オットーは、家を訪れる人に、過去に受賞したペリマンニ・コンクールのトロフィーなどを自慢げに見せていたそうです。
1953年秋、アンサンブル・オーランズ・スペルマンスギッレÅlands spelmansgilleが結成されました。このアンサンブルは、主に冬シーズン定期的に集まって一緒に演奏し、夏には奏者たちの交流会を行うものでした。リーダーのゲスタ・ブリュッグマンGösta Bryggmanは、オットー・シランデルの作曲した曲をいくつか書き留め、1958年にバンド初の音楽集として出版しました。そしてアンサンブルの活動が進むにつれ、次第にオットーも自分の曲を録音するようになります。
1960年代後半から1970年代にかけて、オットーの演奏を記録するために、多くの人がレコーダーを持ってオットーに会いに行きました。オットーは、自分の曲を演奏することに喜びを感じており、曲が広く知られることにも異論はなかったそうです。彼自身、「(曲は)使われるべきものだNiitä pitää käyttää」と語っています。こうしてオットー・シランデルは、スウェーデン・ラジオSveriges Radio、オーボ・アカデミー大学Åbo Akademi、Folkkultursarkivet、ラジオ・オーランドRadio Åland、オーランド博物館Ålands museumなどで録音されるようになりました。1982年には、コッコラで教師をしていたジョン・ヘルベリJohn Hellbergが、オットーのインタビューを中心にした短編、『I Kumlinge(The Kumlinge Players)』を出版しています。
1974年にFinlands svenska spelmansförbund(フィンランドで活動するスウェーデン語圏の民族音楽団体)がオーランドのゴッドビーGodbyでペリマンニたちの集会を催した際、オットー・シランデルはその演奏で注目を集めます。彼は、曲によってチューニングを使い分けていたそうです。この時すでに76歳と高齢ながら、彼の演奏は遊び心のある軽やかなもので、ボウイングは滑らかで、指は素早く動いたと記録されています。オットーが好んで演奏したのは、父や弟、そして大叔父のエバートEvertのポルカやワルツなど、生き生きとした陽気な曲でした。
1983年の夏、Mestaripelimanniが授与されるとの報せが届き、カウスティネンKaustinenに招待されましたが、オットーは体調不良で訪問は叶わず、翌1984年12月に天国へと旅立ちました。
今日、彼の曲はオーランドで生きた伝統として残り、今もÅlands spelmansgilleやオーランドの多くの若い奏者たちによって演奏されています。
さてそれでは、Ålands spelmansgilleの動画や、オットーが作曲した曲を数曲ご紹介して、次の人物の紹介に移りたいと思います。
ぜひお楽しみください。
まずは、オットーが作曲したワルツの曲から。
お次は、Kökarのbrudvals、つまり、Kökar村の結婚式で弾かれるワルツの曲です。クムリンゲ、コーカルの間で、レパートリーの交流があったようですね。
まだまだたくさんあるので、気に入った方はÅlands spelmansgilleのYoutubeチャンネルをご覧ください。
"Kom kom, skall vi bo på Åland"というコンピレーションアルバムに、3曲参加しています。
(了)
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