フィンランドの「西」の音楽文化について
※以下、私自身の卒業論文
(三上紘司 「フィンランド民俗音楽の未来性 - カウスティネン民俗音楽祭を通じて -」『卒業論文集-ヨーロッパ地域文化学-2002年度』 京都文教大学 2003)
から抜粋します。
b) 西部の民俗音楽
ボスニア湾岸沿いのオストロボスニア地方、フィンランド南西部のヘメ地方、ウーシマー地方などを含む「西部」フィンランドは、1323年の国境規定によってスウェーデンに組み込まれて以来、常に文化変容の波にさらされていた。言語の面ではフィンランド語に換わってスウェーデン語が公用語化され、社会制度などもスウェーデン化された。
フィンランド西部で、フィンランド古来のルーン歌唱などが下火になったのは、スウェーデン統治下のフィンランドで支配的であったルーテル派教会の影響である。
「古代の歌謡伝統は1500年代までフィンランド全国で受け継がれていたが、そこに宗教改革が起きた。ルーテル教会は古来の伝統に邪教の烙印を押し、歌の使用を禁じた。同じ頃、西欧から伝えられた新しい音楽が国内で広まりつつあった。これがわざわいして古代歌謡の伝統が失われ始めた。まず西欧文化の受入地であった西部フィンランドで、後に他の地方で。ロンロートに先がけて1600年代にも少数の歌謡が収録されてはいたものの、収録作業の大部分は1800年代に入ってから行われた。宗教改革が影響した後のことである。カレリア地方の奥部であるヴィエナ一帯では古代歌謡の伝統が今でも生き続いている」(web資料:アスプルンド 1999:40)
「西欧から伝えられた新しい音楽」は、ペリマンニ音楽に代表される。
ペリマンニとは、結婚式に現れてダンスのための音楽を提供する、基本的に無報酬の職業音楽家たちのことを指す。
第一次十字軍遠征に端を発するスウェーデン・フィンランド間の移民は、環ボスニア湾岸地域に通商と通信の相互関係を作り上げた。特にフィンランドのオストロボスニア地域の漁民は、漁の出来ない冬季に数ヶ月に渡ってスウェーデンで生活し、時にはスウェーデンに移り住むこともあった。またスウェーデンの国策として貿易に力が入れられた結果、盛んな人の流れが生まれ、結果的に様々な文化の流入も招いたのである。
12世紀頃にはすでに活発に活動していた、旅をしながら音楽を提供する音楽家たちも、この時フィンランドに到着した。彼らは城や町で音楽を演奏し、少なくとも15世紀には、南西フィンランドの農村部に居住するようになった。彼らは、スウェーデン系移民のためのダンス音楽を提供する一方、フィンランド古来のダンスであるチェーン・ダンスのための音楽を提供していた。また彼らは2、3人のグループ、もしくは一人で音楽活動を行ったが、その活動の中には、教会での聖歌の伴奏なども含まれていた。私見であるが、ペリマンニたちは教会の活動を通じて農民たちの間に受け入れられていったものと推測できる。
ボスニア湾岸沿いの狭い地帯において、スウェーデン系移民は彼らだけのコミュニティを持っていたが、そこで、当時スウェーデンですでに定着していた結婚式のダンスも行われていた。フィンランドでは、元々結婚式でダンスを踊る習慣はなく、そこで行われていたのは、家を去っていく娘に対する嘆きを込めた哀歌の吟唱であり、新婚生活に関する様々な教訓を込めたルーン歌唱の吟唱だった。
この新しい文化にいち早く目をつけ取り入れたのが、フィンランド農村部の富裕層や郷紳gentryたちだった。彼らは、ダンスのみならず、結婚式の習慣そのものすらスウェーデン式に移行させていった。
17世紀に入り、農民たちの間でも徐々に結婚式でのダンスが広まり始めると、教会で聖歌を演奏していたペリマンニたちはダンス音楽を提供した。ルーテル派教会は、公式には結婚式でのダンスや、ダンスを演奏するペリマンニたちの存在を受け入れようとはしなかったが、実際には、牧師館に住む牧師やその家族の間にさえ、娯楽としてのダンスや、そのための音楽は浸透しており、特に中央オストロボスニアのルーテル派教会は、ペリマンニ音楽の実践に対して、理由は不明ながら例外的に黙認姿勢を取っていた。
18世紀に入ると、ペリマンニは、彼らがもたらした新しい楽器ヴァイオリンやダンスと共に一般的になっていった。軍楽隊に参加した村の楽士たちが新しいダンス音楽を習得し、帰郷して演奏することで、ダンス音楽はますます身近なものになり、ペリマンニの音楽と、結婚式でのダンスは新しい結婚式の形式として浸透していった。ペリマンニは、ヴァイオリンやクラリネット、アコーディオンなどを演奏し、教会で、教会から新婚夫婦の新居への道程で、また新居で、人々を音楽を用いて先導する役目を持っていた。
現在では、結婚式だけではなく、収穫祭などの季節の祭りや、時には老人ホームの慰問としてもペリマンニ音楽が演奏されている。
ペリマンニたちは、兼業音楽家であることがほとんどである。演奏に呼ばれるとき以外は農夫や小作農、職人(大工、石工、仕立て屋等)、漁師として生計を立てている。ペリマンニは個々に、自分たちが所属する村のためにしか演奏せず、演奏家たちも、違う村の演奏家との間に交流はほとんどなかった。こうした兼業音楽家たちの中には、何代も続く楽士の家系というものが存在しており、どの村にも数軒、あるいは5、6軒の家庭が何世代にも渡ってこのペリマンニ音楽の伝統を受け継いでいる。
また中央オストロボスニア地方のほぼ中央に位置するカウスティネンKaustinenでは、1920年代から60年代にかけて、企業人サンテリ・イソカンガスSanteri Isokangas(1885~1967)が経営したカフェが、積極的にペリマンニたちをサポートしていた。このカフェは、昼夜を問わずペリマンニ音楽が演奏できる場所だった。サンテリは、結婚式のダンスを民俗音楽で行うべきであるとの考えに基づいて行動し、ダンスの教室を開き、村民にダンスを教えていた。サンテリはまた、民俗音楽と並ぶカウスティネンのもう一つの特徴である、民間治療の開業医でもあった。サンテリのカフェとカウスティネンは、カウスティネンの、ひいては中央オストロボスニアの文化的中心地としての意味を持っていたのである。
ペリマンニ音楽の普及は、フィンランド民俗音楽文化にとって革命的な出来事であり、全てに強い影響を及ぼした。カンテレにさえ、それまでの5弦から、複雑なメロディのダンス音楽を演奏できるように弦を増やし、全音階に調弦されるなど、構造上の変化をもたらした。
「カンテレの演奏法に東西の違いがあるなら、それはペリマンニ音楽の影響です」
東部フィンランドではまだ口承芸術の伝統は残っていたが、西部では西欧から流入する音楽文化に変化が現れた。
「19世紀にはフィンランドの民族音楽のおそらくもっとも大きな転換が起こった。カレヴァラ調の音楽と呼ばれた古代音楽、口承詩、泣き屋の歌、五弦カンテレの演奏等が突然、生命力を失ってしまったのだ。西洋的生活体系が普及するにつれ、シャーマニズム的狩猟、および焼き畑文化に強く結びついていた五音階旋法は、機能的和声学の支配する韻文歌曲、バラード、アルッキヴェイス(ブロードシートに印刷された原始的フィンランド風バラード)、橇およびダンス歌謡、そしてプロテスタント・ソングの前に道を譲ったのだった。フィンランド北部のトナカイ遊牧民、サミ民族のみがペンタ・トーンのヨイクの魔法の力を今日まで留めている」(ヤルカネン 1997:222)
西部フィンランド民俗音楽での声楽の分野では、中欧から出版物を介して伝えられたロンドーroundelay(頭韻を踏む詩歌12~14世紀に中欧で発生し、17世紀に流行した民謡、バラッドの形式)が、ルーン歌唱に代わるようになった。
ここまで見てきたように、フィンランドの東西音楽文化は、東部の歌唱文化と、西部の器楽文化に大きく分けられる。しかし、19世紀以降の交通、情報の発達と人の移動は両文化の混交を呼んだことを付記しておきたい。特に、ペリマンニ文化の東進はカレワラ文化の西進、ないし復興よりも強く、19世紀末葉から20世紀初頭にかけて、すでにカレリア地方の国境地帯までペリマンニが到着していたようである。
また、私見であるが、冬戦争の折り、カレリア地方からの疎開を余儀なくされた人々が、保存されていたカレワラ文化を西部地域に取り戻したことが考えられる。このようにして、東部音楽文化と西部音楽文化は、両地域を特色付けるものではありながらも、すでにその境界線はなかったと思われる。
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