フィンランドの「東」と「西」の文化の違いについて(歴史的背景)

※以下、私自身の卒業論文

(三上紘司 「フィンランド民俗音楽の未来性 - カウスティネン民俗音楽祭を通じて -」『卒業論文集-ヨーロッパ地域文化学-2002年度』 京都文教大学 2003)

から抜粋します。

■フィンランド民俗音楽の歴史
 フィンランド民俗音楽は、その様式や脈絡の点から、二つの時代に大別することができる。また音楽以外でも、国土の東西での文化的差異が指摘されることが多い。その明確な線引きは出来ないが、「西部フィンランド」といった場合はボスニア湾岸Gulf of Bothnia地域を、「東部フィンランド」といった場合はカレリアKarelia地方を特に指すことが多い。
この文化的差異が生まれた背景には、フィンランドが経験した被支配の歴史がある。本章では、そうした歴史的背景をふまえつつ、その結果成立した「東」と「西」の音楽文化について概観する。

◎第一節 歴史的背景
約一万年前、氷河期の終わりと共に、氷の溶けた大地にシベリアや西方ヨーロッパから移住してきた人々がいた。彼らは混血し、先住民族であるサミ人を北方に追いやりながら、現在フィンランドとして知られる土地に定住した。これが、今日フィンランド人として知られる人々のルーツである。

a)フィンランドとスウェーデン
A.D.829年、フランク王ルートヴィヒ1世Ludwig I(敬虔王、A.D.778-840)に派遣された宣教師アンスガルAnsgarius(A.D.801~865)がスカンディナヴィア半島に到着すると、フィンランドを含むスカンディナヴィア半島のキリスト教化が始まった。この当時のスカンディナヴィアはヴァイキング社会であったが、10世紀、族王オーロフ・シェットコンヌングOlov Skötkonung(在位推定:A.D.995~1022) が英国人宣教師から洗礼を受け、スカンディナヴィアでキリスト教化した最初の王国を建設した。これが、現在のスウェーデン王国である。
 スウェーデン王国建国当時のフィンランドにはまだ一つのまとまった国家は形成されていなかったが、フィンランド西南方に住む人々は、ボスニア湾を挟んでスウェーデン人とも文化的、経済的関わりを持っていた。

1155年、スウェーデン国王エリク9世Erik Ⅸ (エリク聖王、在位推定:A.D.1150~1160)とローマカトリック教会司教ヘンリックHenrikが、キリスト教の布教ため、後にフィンランドとなる地方へ遠征を行い、この土地を併合、支配する(第一次十字軍遠征)。この遠征には、古くから経済的文化的につながりのあるフィンランドを行政的に一体化するというもう一つの目的があったが、伸張の結果、その目的は達せられ、以降約500年間、フィンランドはスウェーデンの属領となり、準連合の形式で支配されることとなった。


 さて、上述の第一次十字軍遠征が行われたのとほぼ同じ頃、ギリシャ正教会のノヴゴロドNovgorod侯(後のロシア)も東方からフィンランドの改宗を求めて盛んに進出を繰り返していた。1238年の二度目の遠征(第二次十字軍遠征)(注5)、1293年の三度目の遠征(第三次十字軍遠征)を通じてスウェーデン(ローマカトリック教会)とノヴゴロド(ロシア正教会)が衝突を繰り返した結果、13世紀末には両者の間で支配領域の大体の境界が出来上がった。やがて優位にたったスウェーデンは、1323年にノヴゴロドと講和条約を結び、フィンランドの東部地方だけをノヴゴロド側に割譲することで合意を見た。これは政治的境界線であっただけでなく、文化的境界線でもあった。境界線のスウェーデン側であるフィンランドの西部地方と南部地方は、西ヨーロッパ文化圏に組み込まれ、フィンランド東部のカレリアは、ロシア・ビザンチン世界に属することになったのである。
 
 スウェーデンのフィンランドへの伸張に伴い、人々もフィンランドへの移住を始めた。最初の移民は第一次十字軍派遣と共に始まったが、そのきっかけは、スウェーデン中部、メーラレン地方での人口過密であったと言われる。移民は、確かにスウェーデンで支配的であったローマカトリック教会が東方へ勢力をのばす手段として奨励されてはいたが、宗教的な理由の如何にかかわらず全くの自発的に行われた。これらの移民は、当時無人であったオーランド島Ålandやフィンランド湾Gulf of Finland、ボスニア湾岸に定住した。また、1238年、第二次十字軍遠征が始まり、スウェーデン王国がタヴァスティアTavastia(現在のヘメHäme地方)を支配下におくと、ウーシマーUusimaaの海岸地域に大勢のスウェーデン入植者が定住するようになっていった。これら、ウーシマーや東オストロボスニアOstrobothnia地方のスウェーデン人の移住地は、フィンランド人たちの文化と混交することで、新しい西フィンランド文化ともいうべき文化を作り出した。それは、カレリア境界線以東の東フィンランド文化とは農業、家族形態、民具、食糧の点で異なり、むしろ東スウェーデン(ウップランド、東ヨータランド)の文化に似ていた。

b)フィンランドとロシア
 18世紀に入り、勢力を強めたロシアは、西方への膨張を始めた。
この動きに呼応するように、スウェーデンに奪われた自国領土の奪還を意図して、ポーランドもリトアニアやスウェーデンの同盟領に侵攻し、ロシアがイングリアIngria地方に進出することで、1700年、大北方戦争が勃発した。スウェーデンは、この戦争で次第に敗北し、スウェーデン国王カール12世Karl XII (在位:A.D.1697~1718)が死亡したことで、1721年、ニースタッドの条約を締結し、スウェーデンはエストニア(注:現在の北エストニア)、リボニア、インゲルマンランドIngermanland、カレリアの大半をロシアに割譲した。1807年、ナポレオンNapoléon Bonaparte (A.D.1769~1821) が提唱した大陸封鎖同盟にロシアが参加し、スウェーデンがこれを拒否したことから、ロシア軍はフィンランド南部に侵入した。フィンランドのスウェーデン・フィンランド軍はこの戦争に敗北し、1809年、フレデリクスハムン(ハミナ)の和平が成立した。
この和平で、スウェーデンはロシアへのフィンランド全土の割譲を認め、フィンランドは、自治権を有する大公国となった。ロシア皇帝が元首となり、そのフィンランドにおける代理人としてフィンランド総督がおかれた。

 スウェーデン統治下のフィンランドでは、言語や宗教、経済、政治等様々な分野がスウェーデン化されたが、ロシア統治下では、あえてロシア的なそれらを導入することはなかった。ルーテル派教会はフィンランドにおいてもこれまで同様の地位を保持し、フィンランドの公用語としてのスウェーデン語の地位も変わらなかった。また特に1809年から1825年までフィンランド大公を務めたロシアの啓蒙君主アレクサンドル1世Aleksandr I (在位:1801~1825)は、フィンランドに大幅な自治権を与えた。ほぼ独立国と同等の地位を与えられたフィンランドでは、民族意識が目覚めると共に、独立の気運が盛り上がる、最初のきっかけが生まれた。
「明らかにその理由は、フィンランドが、いくつかの点で、当時アレクサンドル1世の追求していた自由化政策の観点から一つのモデル地域として使われたことにあった」(クリンゲ 1994:57)
以降、1917年のロシア革命まで、ロシアによるフィンランド統治が行われた。

(了)

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