見出し画像

哲学、ここだけの話(哲学研究の意味)

哲学を専門とする人たちの前で、私の主張を披露すると、たいてい「何やってるのかわからない」「意味不明だ」という反応が返ってきます。そうした反応が返ってくることは初めから予想できるので、いちいち驚きもしなければ落ち込みもしないのですが、こちらとしては「では、あなたの仕事はよっぽど意味があるのですね」と思うことはあります。

哲学研究者の仕事が持つ意味とは何か。わかりやすいのは、誰かから「君の仕事は意味がある」と言ってもらうことでしょう。そう言われることが多ければ多いほど「意味がある」。有名な学者というのは、有名であるという時点で、すでにその仕事にお墨付きがつきます。「有名である」、「有名大学の教授である」ということは、そうしたお墨付きです。だから有名大学の教授の仕事に対して「意味不明だ」と言う人はいません。西田幾多郎がどれだけ理解するのが難しい話をしていても、誰もそれを意味不明だと切り捨てはしません。

つまりここで問題となっている「意味」とは、「人が認める」ということです。そう考えれば、私の主張に対して人々が「ナンセンスだ」というのも納得がいきます。とはいえ私の主張に意味があるのかどうかは、ここでは問題にしません。むしろここで問題にしたいのは、哲学的な仕事の意味は、誰が決めるのか、ということです。

たとえば日本にはものすごくたくさんのハイデガー研究者がいます。カントを研究する人も多いし、デカルトの研究者も多いでしょう。では、彼らの書いた論文は誰に向けてのものなのか。私は、学者の仕事は、その属するアカデミズムに貢献するかどうかで決まると考えます。カント研究ならカント研究という一つの分野に対してどれだけ貢献するか。そういう意味では、これまで意味がはっきりしなかったカントのテキストを解明すれば、それは間違いなくカント研究に貢献したと言えるでしょう。第一批判を従来とはまったく異なる視点で読み、それが「一つの視点」としてほかの学者を納得させることができるなら、それは大きな貢献です。

こうした貢献がその仕事の「意味」となる訳です。もちろんこうした「意味」「貢献」には程度の違いがあります。大きな貢献から小さな貢献まで色々あるでしょう。それでも、学者がそうした貢献をすることを自らの仕事としていることに疑いの余地はない。

というのは、建前です。

日本人の哲学研究者に、一人一人「あなたは、世界の哲学アカデミズムに対してどういう哲学的貢献をしてきましたか」と問えば、どう答えるか。おそらくそうした問いに対して、一言も答えられない人が出てくるでしょう。なぜなら自分の仕事が、そういう「世界の哲学アカデミズムに貢献することだ」と自覚していない人がいるからです。これはまさに「そもそも」の話です。つまり日本の大学では、「研究」というものの意味をそもそも教えないことがある。こういうことを書くと、「そんなことは当たり前なんだから、教える必要もない」「自分で理解するものだ」という人が必ず出てきます。

確かに教えられなくても、論文を書くときに「この論文の目的は」とか「この論文の意味は」といったことを序文で明確にしなさいとは言われます。言われなくても、それが論文の作法なので、さすがにそれは誰でもする。そして人は、そうやって書いた論文が査読を通って活字化すれば、自分の仕事の学術的な意味は保証されたと考えるのです。しかし悲しい現実ですが、日本人が書いた論文は、(有名な学者のもの以外は)ほとんど読まれません。カント研究者は、ドイツを始めとするヨーロッパのカント研究を読むのに忙しくて、日本人のカント研究を読む暇がありません。こういう状況の中で、読まれる論文を書くにはどうすればよいか。答えは簡単です。ほかの学者がまだ読んでいない欧米のカント研究を読んだり、カントに影響を与えた別の(あまり有名ではない)哲学者の著作を読んで、それのカントに対する影響を論じたりすれば良いのです。それがどんなに些細なことでも、とにかく新事実が明らかにできればよい。こうした論文は、ほかのカント学者にとっても有益ですから、評価されます。ただし、ここには決定的な問題がある。

日本人がヨーロッパの新しいカント研究の消息をいくら仕入れても、それだけでは、絶対にヨーロッパのカント研究に追いつくことはできません。何しろ、向こうの研究を「追っかけて」いるのですから、永遠に「並ぶ」ことすらできない。これは誰が考えても分かることです。もちろん日本の哲学研究の歴史は、「西洋哲学の輸入」から始まっているので、そうしたことにも重要な意味はあります。しかしそれはいつまで経っても「輸入」でしかない。それでは、いつまで経っても「哲学」は始まりません。これは、「欧米とは違う日本人独自の哲学が始まらない」ということに留まりません。例えばカント研究という範囲に限っても、輸入するばかりだと、世界に貢献することは難しい。と言うのも世界の哲学者達は、日本語が読めないからです。これは当たり前のことですが、明らかに「故意に」見過ごされている。

今、理系の学問分野では、論文はすべて英語で書かれます。英語で書かなければ、世界の学者に届かないからです。文系の場合、問題となるのは文化ですから、英語に統一する必要はないのですが、とはいえ、日本のカント研究者、ハイデガー研究者が研究対象としているのは、ドイツ人であるカントやハイデガーです。問題は、カント研究やハイデガー研究を日本語で書く意味がどこにあるのか、です。

日本語で書かれたハイデガー研究は、もちろん日本人を読者として想定している。では、ドイツのハイデガー研究は視野に入っているのか。世界のハイデガー研究は視野に入っているのか。一般には知られていないことですが、今現在、世界で最もハイデガーが盛んに研究されている国は、本国ドイツではなくて日本です。それはドイツ人も認めている。では、世界のハイデガー研究をリードしているのも日本のハイデガー研究でしょうか。そんな話は聞いたこともありません。研究は世界一盛んだが、世界のハイデガー研究者にとって必読だと言われるようなハイデガー研究を書いた日本人はいない。一人もいない。

こうしたことを読んで、「そんなのは当たり前だ」と思う人は多いでしょうが、たとえばパスカル研究では、世界中の学者が尊敬した日本人パスカル研究者がいます。本国フランスで最高のパスカル研究者と目される人物が、わざわざその人の講義を受けに日本に留学してきたというほどの学者がいたのです(前田陽一という人です)。しかしそれは本当は当たり前のことです。そこまでいかなくても、ヨーロッパの学者をうならせる論文を書くことは誰でも「目指せる」はずです。

たかだか二本のドイツ語論文しか書いていない私ごときが言うのも何ですが、研究者である限り、そうしたことを目指し続けることは当たり前です。私の二本目のドイツ語論文(邦題「存在の呪縛」)は、Die gesamte Philosophiegeschichte steht unter dem Bann des Seins. (すべての哲学の歴史は存在の呪縛の下にある)という書き出しで始まります。つまり世界の哲学の歴史には、根本的な問題があると言っているのです。ハイデガーやカントどころか、すべての哲学者を批判すると宣言している。これは、もしその主張が正しければ、哲学の歴史を揺るがすことになります。この論文を発表してすでに十年以上が経ちますが、残念ながら、世界の哲学アカデミズムを揺るがすには至っていません(掲載誌は世界的に有名な哲学雑誌でしたが)。しかし私はあまり心配していません。「今という時代」が私の仕事を評価できないのは当然だと思っているからです。私が問題としている事柄を本気で問題にする人間が出てくるまで、この仕事が日の目を見ることはないでしょう。いつかやってくるだろう、その日を考えて私は仕事をしているからです。

こういうことを言えば、哀れな奴だと私を見る人も出てくるのですが、私は、世界の哲学アカデミズム、さらには人類の思想の歴史に貢献することを意識しています。私の主張の是非はともかく、こうした仕事の姿勢を目にして「哀れな奴」と考える人がこの国に少なくないのは悲しいことです。こうした姿勢を哀れな奴と考える人に、学術的に意味のある仕事ができるのか。問題は、哀れな私にではなく、哀れだと言う人たちの方にあるのではないでしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?