哲学、ここだけの話(言葉と論理)
私は日本人だ。
日本人は素晴らしい。
ゆえに、私は素晴らしい。
見事な論理展開に見えます。
しかしこの議論には大きな穴がある。
私は日本人だ、というのは、実際そうであれば真です。
日本人は素晴らしいというのも、様々な国の人たちが言っているので真でしょう。
となると、やはりこの議論におかしなところはない。
ニュースなどでもよく日本人の活躍を目にしますから、
日本人が素晴らしいということは確かに思えますが、
問題は、それが、すべての日本人、を意味しているかどうかです。
日本語には英語の、a, some, all, といった、量化の限定句がつきません。
日本人は素晴らしいというのが、一人の日本人なのか、一部の日本人なのか、
それとも、すべての日本人なのか、がはっきりしないのです。
上記の三段論法もどきが、本当の三段論法として成立するためには、
二番目の文が、すべての日本人についての文でなければいけません。
私は日本人である。
すべての日本人は素晴らしい。
それなら、必ず私も素晴らしいことになります。
しかしそうではない。
すべての日本人が素晴らしいなどということは言えないし、
証明も不可能だからです。
ところが少なくない日本人がそういう錯覚に陥る。
自国の選手が金メダルを取れば、大抵の国の人間は喜びます。
その点は英語圏の人々も同じでしょうから、
そこに言語の問題は関係がないかもしれません。
しかし次のようなケースをしばしば、まざまざと見せつけられると、
やはりこの問題は大きいと思わざるを得ません。
人の命は尊い、という文を否定する日本人は少ないでしょう。
しかし有名な話ですが、日本人の八割ほどが死刑に賛成しています。
なぜでしょう?
人々は、尊い命を奪ったのだから当然だと言います。
では、命を奪った人の命はどうでしょう?
その人は人ではないのか?
殺人犯は死刑にしろ、という日本人はものすごく多いのですが、
殺人犯は人ではないのか。
その命も人の命なのではないのか?
人を殺せば、その人は人ではなくなるのか。
どうやら日本ではそうなるらしい。
人の命は尊い、という文は、例外を許容するらしい。
つまり、すべての人の命は尊い、ということではないらしい。
こうした議論は、人の命に、尊いものもあれば、
そうではないものもあるということを帰結します。
では、その線引きはどこで行われるのか。
誰がするのか。
死刑について話をすると、
多くの学生が、被害者の家族の気持ちに言及します。
しかし、もしそれほどまでに被害者の家族の心情が大事なら、
そうした家族を裁判官にすれば良い。
その家族に刑を決めさせれば良い。
ところが、そういったことを主張する人はいません。
なぜなんでしょう?そこまですると、法というものが存在する意味がなくなるからでしょう。
言葉が持つ論理性というものがあります。
使っている本人に自覚がなくても、
言葉は一定の論理を持っています。
残念ながら日本の教育では、
そうした論理性が全く教えられない。
その酷さは、外国語教育にもはっきりと見て取れます。
英語やドイツ語などの授業で、A is B. という文があれば、
これをほとんどの日本人学生は、A = B だと言います。
それどころか、英語の授業などで、そう教わってもいる。
ドイツ語の教科書にも、普通にそういう記述があります。
しかし具体的な文を想定すると、
こういった説明は論理ということからすると、
破滅的といって良いほどひどい。
ソクラテスは人間である。
これは、A is B. という文の典型でしょうが、
上記の説明に従えば、
ソクラテス=人間、ということになります。
恐ろしいことに、このように書き換えても、
問題を感じない日本人は少なくありません。
ソクラテスと人間がイコールなら、
ソクラテスはプラトンの師である、
という文章は、
人間はプラトンの師である、
と言い換えられることになります。
イコールとはそういうことだからです。
残念ながら、この国で、こういうことが問題視されることはほとんどないようです。
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