やさしい鉄のトナカイ
3年半前に亡くなった清水の祖父は生前、家の隣で鉄工所を営んでいた。
そこは母の実家であり、小学3年生頃までは私もそこで祖父母と共に暮らしていた。
祖父の鉄工所では主に何かのパーツなどを製造していて、工場(こうば)は鉄の粉で真っ黒く、鉄の匂いがこびりついていて、隅にはいつもたくさんの鉄くずが積まれていた。
祖父は寡黙な人で、あまり笑わなくて、顔の堀が深くて、仕事熱心で、クラシックが好きで、苺も好きで、人参は嫌いで、飼い猫に好かれていて、祖母の作るご飯をいつも決まって「おう、うまそうだな。」とだけ言って食べる、そんな人だった。
昼時になると隣の工場から戻ってきて、ご飯を食べたらまた働きに行く。
昔怪我か病気をした名残でいつも片足を引きずりながら、のっし、のっし、と家と工場を行ったり来たりしていた。
祖父は仕事三昧な人で、幼かった私や兄と遊んでくれた記憶はあまり無いけれど、アルバムを見返すと孫を可愛がる祖父の様子が出てくる。
身長は高くはないが腕が太くて肩幅が広く、力仕事の勲章だと今なら思うが、幼い頃の私は岩みたいな人だなぁとしか思っていなかった。
寡黙な祖父が何を考えているか分からず、二人でいるときは妙な気まずさを感じることもあった。
そんな、何にも動じず、変わらず、そこにじっと佇む、岩のような人。そこから滲み出る不器用な優しい空気が私も好きだった。
ある年の12月、祖父から「ほれ。作ったぞ。」といきなり手渡されたものがある。
それは工場に積まれた鉄くずを組み合わせて作られた、トナカイの形をした置き物だった。
ぶつ切りにされた太い鉄管を胴体として、そこからボルト製の首と手足が伸び、ナットやら鉄の破片で顔が形造られていた。
正直、貰った当時はプレゼントされた嬉しさよりも、あの堅物な祖父がこんなものを作る遊び心を持っていたのかという驚きのほうが大きかった。
それからのクリスマスには毎年そのトナカイが押し入れから引っ張り出され飾られるようになったが、年々それに対して特に何も思わなくなり、トナカイはただ家の一部になっていった。
その後もトナカイの他に祖父が作った鉄くず作品はなかった。
祖父は仕事を引退した後、工場をたたみ、祖母と引っ越し小さな家で静かに暮らした。
家にいる時間も増え、体は細くなり、老いを迎えていた。
私が京都の伝統工芸の専門学校に通いだした頃には、ほとんどベッドで寝たきりの生活を祖母に支えられながら送っていた。
静岡に帰省して会いにいく度に、言葉はゆっくりと遅くなり長くは話せなくなっていた。
寝たままの祖父に、私は京都で作った漆の作品を持ち帰って見せたが、祖父にどう見えていたかはわからない。
それでも最後はいつも決まって「華、頑張れよ。」とだけ言っていた。
扱う素材は違うけれど、同じものづくりをしていた祖父から言われるその一言は、とても真っ直ぐなもので、襟を正されるような思いがした。
少ないけれど、単純だから、今でもそれは祖父の声ごと私の心に残っている。
重くて、冷たくて、ちょっと不格好なトナカイは祖父が亡くなった今でも私の家の玄関前に立っている。
あの質感を見ると、今でも鉄臭い工場を思い出すし、祖父との日々が蘇ってくる。
役割を成さない、積み重なった鉄くずからできた一つの小さな置き物だが、それは祖父の気まぐれと孫への愛情で生まれたものだった。
大人になって、やっと祖父の考えていることがわかった気がした。
何か「もの」を作るとき、同時に「はしっこ」や「あまり」と呼ばれるものが生まれる。
めんぱを作るときも、もちろん生まれる。
切り取る位置の、ほんの少しの差で、100年使われるめんぱとなるのか、冬の一瞬で燃される薪となるのか。
どっちにしてもその材は大井川流域で育った良質な檜だが、めんぱを作らなければ生まれないそれの量は、計り知れない。
私は死ぬまでめんぱを作り続けていきたいから、そのめんぱにならなかった「かけら」たちとも向き合っていきたいと思った。
思い返せば私は幼い頃から、お菓子の包装紙やショッピングバッグ、リボンの切れ端などを山ほど集めては、テキトウな工作で絵手紙などをちまちま作ったりして遊んだりしていた子供だった。
そこからものづくりの楽しさを覚えていっていた。
必ずしもめんぱのような実用性は持たせられなくても、いいと思う。
形を変えて、誰かのもとに残る「もの」に作り変えていきたいと思う。
大井屋に就職して、日々制作をしながらふと作りたいと思いたったものが、この漆のツリーだった。(Instagramアカウント @o____iya diary にて掲載 )
それがいつか誰かに、いいなと思ってもらえる「もの」になるまで、祖父に頑張っているときちんと報告できるまで、私なりのものづくりの答えを探っていきたい。そう思えた。
あのトナカイが、今の私に教えてくれたことだ。