今日は調子良かったよ。
今日はなんだか仕事ができたようなそんな錯覚というか、すくなくとも動けたように思う。無意識には、昨日送別会があり、そのときに言われた言葉、具体的には「自分がジャッジする人間として見られるためには、言い切ることが必要」「止まった車を動かすのは大変。仕事も同じ。常に動かし続けることが重要。その時の判断が間違っても、後で訂正すればよいのだから」ということになるのだろうけど。これはひと月前くらいに、同じ人から飲みの席で言った内容と同じだのだけれども、2度聞くと体に染みつき始めるのかもしれない。でもどうしてなのだろうと、思う。今日の朝、出勤前の少し前にスタバに入り、本を読んだが集中できず、けっきょく仕事の焦りは仕事だけしか解決できないのだと観念して、しかし嫌な気分で出社したのだった。確かに今日はマスクを外して出社した。前日は直属の上司がフルで動いていて感化された。でも、何が違うのか。チャットGPTに書いたからか。Todoistを再開してタスクが見える化したからか。『限りある時間の使い方』を考えると、タスクを幾ら明確化しても、それは「シジュポスの神話」的状況であり、できること自体は虚しく消え去るのだからのめり込むことの危うさはあるけれど。それでも。自分じしんに効用感を感じられたことは、素朴に嬉しかった。そういえば、午前の打合せ、上司が来ない前提で準備もしたけど(書いてて恥ずかしいな)、ただひとりでやればいいんだなという肌感を掴みかけたのかもしれない。そうね、そうかもしれない。もう一度書けば(今度は引用符をなくして)、自分がハンドリングするために言い切ること、主導権を握ること。また、仕事を動かし続けること、止めないこと。それを少しずつだけれど実践していく。たぶん、前職ではできていたことが環境への気後れから、主導できなかったと思っている。預けられることへの機会をメリットとして、ずいずいやっていくこと。明日もそうなりそうだけど、それは仕事をやりやすくすることのチャンスであること。それを周囲に認めさせること。あまり自分を卑下しないこと。その積み重ねが必要なのだろうと思う。仕事を動かすこともそうだけれど、自分じしんも動かし続けることが、仕事能率も精神衛生も良いのだと思う。恐怖だろうと行け行けとカスタネダをけしかけるドンファンのことを思い出す。『気流の鳴る音』を読み返したくなる。