才能がある?ない?
比べて、焦って、落ち込む
就職を契機に静岡に移住し、かれこれ24年が経過しました。
途中、勤め先が変わることがあったものの、同じ年数を「プログラマー」という仕事で今までなんとか生活できております。
元々コンピューターが好きだったこともあり、若い頃は「これぞ天職!」と信じて疑っておりませんでしたし、年月を経て仕事を任されるようになるにつれ、だいぶ得意げになっていた時期もありました。
中々青臭いですねぇ…。
経験を積めば当然自身の役割も変化し、一介のプログラマーはSE、リーダーと呼ばれるようになり、仕事を通じて関わる人々もそれに応じたものに変わってきました。
そして、突きつけられるんですよね。
どの世界にも上には上がいるという現実と、得意げになっていた自分のスキルが取るに足らないものであったということを。
同年代はおろか、若い人たちの中にも、私が羨むほどの才能に溢れた方々が次々と現れ始め、「天職」は次第に色褪せたものとなってきました。
比べて、焦って、落ち込む。
いつしか私の心は、抱えきれないほどの黒いもやもやに包まれ、かつての輝きは完全に失われてしまいました。
「続けられるってそれだけで才能なんじゃない?」
自身の特性も関係してか、一度こう思い始めてしまうとなかなか抜け出せなくなってしまうんですよね。
「自分みたいなポンコツプログラマーが作るプログラムなんて、誰かのためになるのか?」
「より多くの成果を出せている彼らがいるのならば、自分はもう必要ないのでは?」
今思えば随分と馬鹿げた思考ですが、当時は結構本気で思っていたんです。
元々自己肯定感も低めですしね。
劣等感・焦燥感から生まれた負の感情は自身の思考も捻じ曲げ、次の行動にも悪影響を及ぼします。
私は上司にこう相談しました。
「この仕事を続ける自信がなくなりました。向いていないと思います。」
幸いなことに、この相談は一蹴に付されました。
曰く「君がこの仕事に向いていないなんて思ったことは一度もない。私は君の能力を高く評価している」と。
また、こうも言われました。
「10年以上続けることができているじゃないか。続けることができる、それは十分才能と言えるんじゃないか」
散々使いまわされた言葉ではありますが、確かにその通りなのかもしれません。
やっぱり好き、だから続けたい
だって、こんな思いをしているのに、手は止まらないんです。
朝起きると、無意識に最新ITニュースのチェックしちゃいますし、目新しい技術を見るとつい試したくなっちゃいます。
仕事で散々やっているくせに。
家に帰ってまで、休みの日にまでパソコンにかじりついてカタカタとキーボードを叩いてしまいます。
好きなんですよね、やっぱり。
続けたいんでしょうね、きっと。
振り返った時に見えた景色
比べる対象が違っていたんです。
スタート・バックボーンが違う人たちと自分とを、勝手に用意したものさしで測り「優れている」「劣っている」って勝手に一喜一憂したところで、それってなんの意味もないじゃないですか。
過去の自身と比べればいいんです。
20年前、10年前、5年前。
比べてみてください。
明らかに違うんじゃないですか?
今日・明日・明後日で大きな成長・変化はしていなくても、振り返るたびに見える景色は変わっているはずなんです。
とてつもなく高く見えた山も、歩くことを続けていればいつか必ず頂にたどり着くはずです。
そこで振り返った時に見えた景色こそ、自身が重ねてきた歩みそのものなんだと思います。
備考(的なもの)
今回の内容は、多くの方々によってすでに言い尽くされたものだと思います。それでもやはり多くの方が同じような悩みを抱いているのではと思い、この note を書いてみました。
ちなみに最後の見出しは前回のタイトルですね。
実は前回、この内容を書こうと思ってあのタイトルをつけました。
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