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リンボルヒュ/リンボルクの時代についてのメモ

最近関心を持っているアルミニウスやレモンストラント派の関連で、桜田美津夫『物語 オランダの歴史』(中公新書)を読んでいたら、レモンストラント派のリンボルヒュが、ジョン・ロックとの交友があり、その交友から、ロックの『寛容に関する手紙』が記されたとあった。

レモンストラント派関係の書籍が日本語で出ているのは、おそらくグローチウスくらいだろうと思う。しかも、法律関係なので筆者にはあまり縁がない。それにどうやらもう稀覯本レベルになっているようだ。でも、グローチウスはレモンストラント派だったということより、国際法関係で有名らしく、日本語で評伝も出されている。(筆者はまだ未読である。)

そんなわけで、レモンストラント関係の著作が日本である、と浮足立って調べてみると、岩波文庫で昨年出ているではないか。アマゾンで買い求め、解説を読んでいると、こういう一節があった。

・・・ロックは(・・・)オランダに亡命した。そのロックに対して、イングランド当局の追跡から身を隠すための親身の努力を惜しまなかったのが友人のリンボルクであった。
 しかも、そのリンボルクは、宗派的にはカルヴァン派のうちのレモンストラント派に属する神学者として、寛容問題に切実な関心をもたざるをえない境遇に置かれていた。当時のオランダでは、二重予定説をカルヴィニズムの正統な教義とみなす厳格なゴマルス派が、有力諸州の総督オラエニ家の強大な権力を後ろ盾に、人間の自由意志をより広く認める立場に立ち、共和派に指示を仰ぐレモンストラント派を異端あるいは分派として排斥しようとする動きが強まっていたからである。                                                       ジョン・ロック『寛容についての手紙』「解説」p153

(太字はこちらで施した。)

ここだけ読むと、まるでリンボルクが生きた時代に、レモンストラント派を排斥しようとする動きが強まっていったように読めなくもない。しかしこれはおそらく少し不正確な記述のように思われる。

レモンストラント派は、ヤコーブス・アルミニウスというオランダの神学者の後継者たちを指すときの呼称である。アルミニスとレモンストランス派は、主に予定論を巡って、カルヴァン派(その中にゴマルスも含まれる)と意見の相違があった。

1618-19年には、ドルトで全国教会会議が開かれ、レモンストランス派は異端と認定され、牧師たちは国外退去。レモンストラント派を擁護していたホラント州の法律顧問オルデンバルネフェルトは斬首に処せられてしまう。ヒューゴー・グロチウスは投獄されるが、長櫃に入って脱獄して亡命、というレモンストランス派にとっては敗北のようなところを通った。

しかし、その後、カルヴァン派の側に立っていた州総督マウリッツが死去した後に後を継いだフレデリック・ヘンドリックは、「国内政治では対立の緩和と宗教的寛容を旨とした」(桜田 69)といわれている。実際、ヘンドリックが就任したことで、

その結果、早くも翌1626年には、アントウェルペンに亡命していたレモンストラント派の指導者たちが相次いで帰国する。ほどなくレモンストラント派は、ロッテルダムやアムステルダムに彼らの教会を獲得した。1634年にはアムステルダムに独自の牧師養成のための神学校も開設され、1名(のち2名)の教授が任命された。こうしてレモンストラント派は、カルヴァン派教会から分かれて別個の教会になった。 桜田美津夫『物語 オランダの歴史』69

という指摘があるから、レモンストラント派に対する風当たりは弱まっていたと考えても良いといえる。レモンストラント派教会というのは今も実は残っていて、HPを見ると今年は創立?400年らしい。

さて、リンボルクが生まれたのは、1633年である。その翌年にはアムステルダムにレモンストラント派の神学校が開設される。すでに教派の教会も存在していた。そのような時代を指して、

当時のオランダでは、二重予定説をカルヴィニズムの正統な教義とみなす厳格なゴマルス派が、有力諸州の総督オラエニ家の強大な権力を後ろ盾に、人間の自由意志をより広く認める立場に立ち、共和派に指示を仰ぐレモンストラント派を異端あるいは分派として排斥しようとする動きが強まっていたからである。 

と論じるのは、少し不正確なのでは?と思ってしまう。少なくとも、それはリンボルクが生まれる前の事の話では、と。(でもリンボルクの時代にも激しい迫害があったのかもしれない。筆者のオランダ史のレベルもまだまだ付け焼刃なので、そこらへんの歴史をご存知の諸賢は是非ご教示いただけると有難い。)


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