隠者たち
鴨長明(1155〜1216)
去年から「方丈記」や鴨長明についての本を何冊も読んだ。なかなか沁みる古典である。きっかけは養老孟司先生の動画を視たことだったが、この本には人生で起こる全てのことが書かれていると仰っていた。鎌倉の自然溢れるご自宅で猫と戯れる養老先生の趣味にも合っていたことだろう。
鴨長明が日野の方丈に持っていったのは、僅かの書物と琵琶・琴だけだという。長明は下鴨神社の神職の家柄で、琵琶を伝える家ではなかったが秘曲の伝授まで許された名手だった。今で言えば、ギターのアマチュア・コンテストで優勝したり、プロからディプロマをもらうようなハイアマチュアだったと言ってよい。
昔のことゆえ琵琶を弾くことが神事と結び付けられていたのか。長明は、弾けるからといって、自分が主催した演奏会の感興にのって秘曲「啄木」を弾いてしまった。この曲については伝授を免許されていなかったとも言われるが、琵琶を伝世する家の当主はかんかんで後鳥羽院に言いつけた。それも隠棲のきっかけの一つだが、愛すべき長明の世渡り下手であった。
鴨長明は歌人でもあった。下鴨神社の禰宜職の跡目争いに敗れて辛酸を嘗めたが、後鳥羽院が和歌所の寄人に取り立ててくれた。しかし、ここでも親族に言いがかりをつけられたり、何かと苦労があった。本人の性格もあるのか、相性の悪い人とはまったくうまく行かなかったらしい。また、歌にせよ、前述のごとく音曲にせよ、少々自意識過剰で空気を読まないきらいがあったようだ。
結局、神職での出世に絶望し、歌道や音曲でも苦労があって、俗世間が嫌になった。初めは大原、次に日野に隠棲し、余生を穏やかに過ごして62歳で没する。都の文化人と音信を保っていたから俗気は抜けてなかったが、わが名が後世に伝わるとは思わなかっただろう。
つげ義春(1937〜)
映画評論家の佐藤忠男によると、つげ義春の作品は「出家遁世を成し遂げつつある隠者の芸術」とのこと。つげさん自身も創作活動を遁世、隠者という言葉で振り返ったそうだ。住んでいたのは東京(調布市)で家族もあったけれども、脱力したアウトサイダーの視線はたしかに隠者のものだ。
つげ義春の代表作の一つ「無能の人」の主人公はマンガ家だが本業ではなかなか売れない。口ではインテリっぽく小難しい理屈をこねるがプライドに適う注文が来なくて、生活力はない。河原の石を拾って競売に出品したり、中古のカメラを仕入れて転売したりするが行き詰まる。(石の競売や中古カメラの転売は実際につげ氏が試みたことだという)
この主人公は戦後の混沌とした世相の中で自由業を選び、高度成長に乗れぬままの貧乏ぐらしで妻は愛想を尽かす。彼自身がまるで河原の石のように無用の存在に見える。彼には生活力はないが、野心もあれば物欲・色欲も枯れてはいない。それを突き放しながら描く作者の視線が隠者なのだ。
つげ義春は2020年には第47回アングレーム国際漫画祭で特別栄誉賞を受賞したが若い時は苦労した。神経症に悩まされたが、作品化された奇態な夢の数々は幻想的な雰囲気を醸し出す。貧乏をリアルかつユーモラスに描くことで、カネとモノが余る世を超えて自由な市井の隠者となった。
井上井月(1822〜1867)
幕末は信州伊那に忽然と現れた俳人、井上井月(せいげつ)について、つげ義春が「無能の人」の作中で紹介していた。漂泊の俳諧師であり種田山頭火が敬慕したという。山頭火は出自や経歴がわかっているが、井月の前半生は不明という。教養人だが、だらしなく次第に村人にも疎まれた。
つげ義春が「無能の人」で紹介した井月の句は4つ。
「降るとまで人には見せて花曇り」
「落栗の座を定めるや窪溜り」
「石菖(せきしょう)やいつの世よりの石の肌」
「何処やらに鶴の声きく霞かな」
歌は一首。
「今や世に拾う人なき落栗のくちはてよとや雨のふるらむ」
井月は出自を語ることはなかったが元は長岡藩の武士だったらしい。たいそうな文化人であり洋学も学んだ最先端の知識人でもあったが、一種の世捨て人、放浪者であった。村人に酒を馳走になると、だらしなくなり、終に体を壊して明治20年に伊那に没す。
忘れかけられていたが大正時代に伊那出身の医師によって句集が刊行され世に知られた。実は蕉風の俳諧を真剣に追求した求道者の面もある。伊那の井月を描いた映画に「ほかいびと」があるそうだ。
ヘッセの「クヌルプ」(ヘルマン・ヘッセ 1867〜1962)
あるいはヘルマン・ヘッセの「クヌルプ」も漂泊の人であり、市井の隠者でもあると言えそうである。彼は、街から街へと転々としながら、その所々で知り合った人に何某かの好い印象を残して(好い影響を与えて)、また人知れず去って行くのであった。彼は、ひと処には定まらない。
クヌルプ自身が自分は何者なのか思い定めている様子はない。常にこの世界から一定の間合いをとって、自分という唯一無二の存在が、世界にも周囲の人々にも同化されえない(あるいは自分自身の根拠を他者に求めえない)ものだという自覚の下に生きているかのようだ。
昔、クヌルプは優秀な学生だったが、恋愛での挫折が彼の性格と生き方を孤独に変えた。彼は人を愛せない訳ではないし、彼はどこでも周囲の人たちから親しみを覚えられた。だが、彼は人と人との関係には限界があると諦観している。最期に彼は自分は正しかったのか神に問いかける。神の答えはクヌルプの漂泊の生涯を肯定するものだった。
本作はヘッセの初期と中期の間に位置し、この後、彼は東洋思想に傾倒していく。日本文化の文脈とは異なるが、クヌルプ=ヘッセも市井の隠者ではないか?
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