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忘れられていた古墳(東京都府中市)

府中の古墳

 東京都府中市は古代の律令国家時代に、武蔵国の国府がおかれていたところであり、さまざまな遺跡が発掘されてきた土地である。古墳に関してはJR南武線および京王線の分倍河原駅近くの高倉塚古墳群と呼ばれる小さな円墳の遺跡、および南武線西府駅近くの御嶽塚古墳群と呼ばれる小さな円墳の遺跡が従来から知られていた。これらの小円墳は5世紀から7世紀はじめくらいまでに造られたもので、当該地域の有力者が葬られたものと見られている。

 ところが2003年のこと、高倉塚古墳群から1.2kmほど、御嶽塚古墳群から400mほど離れた熊野神社境内に、それら小さな古墳群よりもひときわ大きい単独の古墳が発見されたのだった。しかも、かなり特徴がある古墳である。まず形状だが1段目と2段目が正方形、3段目が円形となっている上円下方墳と呼ばれるもので、この形の古墳は全国で6例しかないとされる。(府中市に近い三鷹市にも天文台構内古墳と呼ばれる上円下方墳があり、熊野神社古墳と同時代の築造と考えられている)

 そして、その大きさだが一段目は一辺約32メートル、高さ約0.5メートル、二段目は一辺約23メートル、高さ約2.2メートルでそれぞれ方形をしており、三段目は直径約16メートル、高さ約2.1メートルで円形を成している。なお三段目は古墳完成当時は5メートル程度の高さがあったものと推定されているそうだ。なお、この大きさは上円下方墳の中では埼玉県川越市の山王塚古墳についで二番目に大きい。

 築造された時期だが、3室構造の横穴式石室や副葬品の中で残っていた鞘尻金具の特徴などから推定して、前述の小さな古墳群よりも新しい飛鳥時代の7世紀中頃と見られている。全国的にも6世紀末には前方後円墳は造られなくなり、もともと現府中市域では小さな円墳が築造された中で際立った大きさであった。これを現在、「武蔵府中熊野神社古墳」と呼んでおり、国史跡に指定されている。

武蔵国府の立地の不思議

 ところで武蔵国とは概ね、現在の東京都と埼玉県ならびに神奈川県川崎市を含む地域である。東京都を含むと言っても江戸と呼ばれた地域が発展したのは徳川幕府が整備して以降のことで、それ以前は湿地が多く人は少なかった。律令時代に開けていたのは多摩地域の方で、それ以前の太古の昔から武蔵国で栄えていたのは今の埼玉県の地域の方であった。

 その証左として、武蔵国の一の宮である氷川神社は埼玉県大宮市にあることを指摘することができる。この神社は伝承によると第五代孝昭天皇の時代に創建されたというから、今から2千年以上昔ということになる。さらに第十三代成務天皇の時代に出雲族の兄多毛比命(エタモヒノミコト)が朝廷の命により出雲族を引き連れて移住し、武蔵国造となってこの地を治めたとされる。史実の如何はともかく、太古の武蔵国で埼玉県域が栄えていたことを反映しているものだろう。(なお、私自身は埼玉県民ではないし、特に埼玉県びいきでもないので念の為)

 それでは、どうして律令国家を築いた時に、武蔵の国府を一の宮である大宮氷川神社の近くに置かずに、ずいぶん離れたところにある今の東京都府中市の方に置いたのだろうか。おそらく、そこには政治的な要因があったのだろうと推測されている。簡単に言うと、今の埼玉県の地域には強力な在地勢力がいたので、その権益と衝突するような中央政府の出先機関を置くことができなかったのだろうと考えられている。

埼玉古墳群と武蔵府中

 埼玉県の行田市は群馬県と県境を接する埼玉県の北部に位置するが、ここに埼玉(サキタマ)古墳群がある。古墳群とは言っても、前方後円墳8基と円墳1基の大型古墳が残る全国有数の大型古墳群であり、5世紀から7世紀にかけて築造されたものと推定されている。 

この古墳群が有名になったのは、前方後円墳のひとつである稲荷山古墳から発掘された鉄剣から金象嵌銘文(キンゾウガンつまり刀剣に彫った溝に金を埋め込んで記された銘文)が検出され、大和の雄略天皇から下賜されたものと推定されたことからである。まさに古墳時代に、武蔵国の北部に強大な在地勢力が存在し、大和朝廷と親善をはかっていたことが裏付けられたのである。(剣の贈り主を雄略天皇ではなく東国の他の豪族とする考えもありうるが5世紀当時に大和の支援なしで古墳の築造が可能だっただろうか) 

 稲荷山古墳ないし埼玉古墳群の被葬者については未詳であるし、大宮氷川神社と埼玉古墳群とが直接結びつくのかどうかもわからない。しかし、行田市の埼玉古墳群だけではなく、埼玉県内には他にも、いくつかの古墳群があり、古墳の規模とその広がりにおいて東京都の古墳を圧倒していると言って差し支えないように思われる。

 こうしたことから埼玉県域には強力な在地勢力勢力があったために、朝廷の直轄地(多氷屯倉オオイノミヤケ)があった現在の東京都府中市に国府を設置することにしたのではないか、それに協力した府中市域の在地勢力が熊野神社古墳の被葬者なのではないか、というのが現時点での有力な仮説らしい。(なお律令時代、役人が都から武蔵国府に赴くには東山道を通り上野国=群馬県側から東山道武蔵路を南下した)

 文献的には大宝元年(701年)の大宝律令で武蔵国に国司を置くことが定められ、大宝3年(703年)7月、引田祖父なる人物が武蔵守に任じられたと『続日本紀』(ショクニホンギ=平安時代初期に編纂された勅撰史書)には記されている由。

 ただし、平成30年11月に府中市が発行した「国史跡 武蔵国府跡 国司館地区」というパンフレットでは発掘調査の知見から「武蔵国の国司館は、7世紀後半〜8世紀前半に造営されたと考えられています」と記されている。7世紀中頃に熊野神社古墳が築造され、引き続き国司館が造営されたと考えられているようだ。

武蔵府中熊野神社古墳が発見された経緯

 このように府中市の熊野神社古墳は、古代の律令制=中央集権国家がどのように成立して行ったのかを武蔵国において探る手がかりの一つになる歴史的に重要な遺跡だと言うことが出来るだろう。しかし、そのような遺跡の存在が現地の人々の記憶からはすっかり忘れ去られていたこと、思いがけず現代に再発見されたことも興味深い。

 古墳と熊野神社はもともと関係がなく、神社の方は18世紀の後半ころ近くの別の場所から今の場所に移築されたという。そのころには既に古墳は土に覆われて自然の小山のようにしか見えなかったのだろう。社殿は、その小山に隣接して建てられた。

 時代はずっと下って1990年のこと。熊野神社の祭礼で用いられてきた山車が壊れたため新調することになったが、一緒に山車の収納庫も建て替える話が出て、神社内にあった小山の一部を削り、規模を拡大して建て替えることになった。しかし、その収納庫の新築に際しては府中市教育委員会から遺跡発掘調査の指示が出された。かつて武蔵国の国府が置かれていた府中市内には工事に際して遺跡発掘調査が義務付けられている地区があり、熊野神社は該当したのだった。

 調査したところ、熊野神社敷地内の小山は、土を突き固める版築という方法で築造された人工物であることが判明した。また河原石も大量に見つかった。それでも以前から知られていた高倉古墳群から離れていたことや、周辺には墳丘に版築工法を用いた古墳が見当たらなかったこと、さらには近世の文献で、これが古墳であることを記したものがなかったことから、その時は古墳とは認められなかった。

 その後1994年、府中市が熊野神社の南東にある高倉古墳群を地中レーダーで探索した時に神社の小山も調べたところ内部に構造物があることがわかった。また、明治時代に書かれた文献に小山の内部が墳墓になっていることを伺わせる記述があることもわかった。そこであらためて2003年に発掘が開始されたのだが、まもなく上円下方墳であることが判明し、2005年には国史跡に指定されるという怒涛の展開となった。

熊野神社古墳の保存

 熊野神社の山車の収納庫を結局どうしたのか承知していないが、「瓢箪から駒」もしくは「棚からぼた餅」とでも言うような実話である。府中市に武蔵国府が置かれたことは、はっきりしていたが、場所が特定されたのは昭和50年代に行われた発掘調査の結果であり、しかも何か構造物が国衙の遺跡として残っていたわけではない。

 それに対して、この上円下方墳は、そのものが往時の姿で再発見されたのだから府中市民にとって感慨深いものがあったことだろう。むろん、武蔵国府が創建した総社である大國魂神社は府中市民の心の拠り所として古代から連綿と続いて来たわけだが、古墳の発見によって府中市の歴史が飛鳥時代まで遡ったわけである。

 2011年には市が「国史跡武蔵府中熊野神社古墳展示館」を開館したほか、自然の小山と見分けがつかなかった古墳は現在、葺石や貼石が表に出た姿に復元されており、解説板や国史跡の古墳であることを示す碑が置かれている。

 こうして古代遺跡として保存されているだけではなく、古墳を中心にした町おこしイベントも催されているらしい。その名も「武蔵府中熊野神社古墳まつり」と言うそうで、近年の疫病以前は毎年、古代衣装によるパレードやら雅楽、和太鼓、ジャズの演奏なども行われ、時代も起源も気にしないイベントで盛り上がっていたらしい。

 ちょっと苦笑いしたい気持ちもあるのだが、市民の親睦と町おこしが図れるのはけっこうなことだし、それが現代の民俗というものなのだろう。

(2022年4月)

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